旧約聖書をなんと呼ぶべきか?


 宗教的中立な立場で旧約聖書を語るならば、ヘブライ聖書と呼ぶべきだという意見がある。
 
 旧約・新約というのは、キリスト教の神学に基づくものだから、その神学から外れた読み方をするならば、それぞれの原典の言語から、旧約聖書をヘブライ聖書、新約聖書をギリシア聖書とするのが良いというのだ。
 この動きに僕が賛同できない理由の一つは、これがユダヤ教にかなり媚びた呼称だからである。
 
 旧約聖書に収められている文書群は、ユダヤ教の正典でもある。
 だから、当初は「ユダヤ教の聖書」とか「ユダヤ聖書」と呼ぶ動きがあったが、これにユダヤ人は猛反発したのだ。
 聖書という概念自体がキリスト教のものであり、ユダヤ教に聖書はないというのだ。

 そこで、ユダヤ人が提案したのが「タナク」あるいは「タナハ」という呼称。
 これは、旧約聖書の文書群が、ユダヤ教では「律法」「預言者」「諸書」と3つの分類にわけられているせいで、その頭文字をとると「TNK」となる。
 だが「タナク」あるいは「タナハ」と言われても、こちらは混乱するだけである。
 いくらヘブライ文字が子音しかないとはいえ、どちらかに統一できないものを代案として出されても困る。
 
 歴史的には「成文トーラー」という言い方が、ユダヤ教徒が旧約聖書を示すのにもっともよく使われたものだ。
 ところが、このトーラー(律法)という表現の意味するところは多岐にわたる。
 そもそも「トーラー」はキリスト教旧約聖書の「モーセ五書」のことである。
 また、旧約聖書にあたる「律法」「預言者」「諸書」のことも、トーラーと呼ぶことがある。
 トーラーには口伝のものがあり、それがタルムードに発展したともいわれる。
 このように、トーラーというのは、実にややこしい。
 ということで、ユダヤ人が怒らず、キリスト教徒にもわかりやすいということで「ヘブライ聖書」という新語が生まれた。
 
 さて、我々が現在手にすることができる「旧約聖書」には底本がある。
 1008年に作成されたレニングラード写本のことで、死海文書発見以前は世界最古であったヘブライ語旧約聖書の全文である。
 ただし、このすべてがヘブライ語というわけではない。
 細かいようだが、エズラ記4:8-6:18と7:12-26、ダニエル書2:4b-7:28、エレミヤ書10:11の一語、創世記31:47の一語は、アラム語である。
 どうしてこのようなことが起こるかといえば、ヘブライ文字はアラム文字を受容したものであり、そこから多くの字形があるからだ。
 
 新約聖書の原典はすべてギリシア語で書かれている。
 そして、新約聖書の文書群はパウロをのぞき、ヘブライ語を知らない者が書いたと考えられている。
 例えば、福音書のイエス・キリストが十字架上で発した有名な言葉がある。マルコ福音書とマタイ福音書から引用する(いずれも新共同訳)

三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マルコ福音書15:34
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイ福音書27:46

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というセリフはイエスの発明ではなく、旧約聖書詩編22章の冒頭句である。
 詩編22章の内容は、神の沈黙に絶望したものではなく、神の沈黙のなかでも主を賛美しようとする信仰の歌なのだ。

 この語句、ヘブライ語では「エリ、エリ、ラマ、アザヴタニ」となるらしい。
 「サバクタニ」はアラム語訳(タルグム)の詩編に由来するとのこと。
 このように、新約聖書の福音書作者は、ヘブライ語を理解していなかったのに関わらず、ヘブライ語を引用しているのだ。
 ヘブライ語こそ神の言葉であると信じていたのだろう。
 
 話がかわるが、僕の実家は仏教の真言宗である
 僕も対外的には仏教徒であると自称している。
 真言宗の真言(マントラ)は、サンスクリットをそのまま音読する。
 真言(マントラ)のなかで、耳になじみがあるのはビートルズの「アクロス・ザ・ユニバース」の歌詞の一節であろう。

Jai Guru Deva Om
 
 これは日本語訳すると「我らが導師、神に感謝を」となる。
 意味を知るとつまらないが、想像力をかりたてる響きである。
 これが真言(マントラ)である。
 
 真言宗でもっとも有名なのが「般若心経」だろう。
 日本で読まれるのは、西遊記の三蔵法師こと玄奘の漢訳をもとにしたバージョンだ。
 この般若心経では、最後に真言(マントラ)が出てくる。

羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
(ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボウジ ソワカ)

 日本語に訳すと「行こう行こう、彼岸に行こう、浄土に行こう、悟りが成就」となる。
 実におめでたい内容だが、前半の「色即是空、空即是色」の概念が難しすぎるので、それが理解できなくとも、このマントラを唱え続ければ良し、ということであろう。
 
 仏教ではサンスクリットが仏の言葉である。だから意味がわからずとも、サンスクリットによるマントラを唱えれば、悟りの境地に近づくと考えられたのだ。
(特に、真言宗はその思想が強い)
 こういう宗教を背景に育った僕としては、新約聖書の福音書作者が、ヘブライ語を知らないのに、イエスの印象的な言葉をヘブライ語で表現しようとした表現手法はおかしなものではない。
 キリスト教にとって、ヘブライ語は神の言葉だからだ。
 
 しかし、旧約聖書をヘブライ聖書、新約聖書をギリシア聖書とするのは、どうもいただけない。
 キリスト教はギリシア語で生まれた宗教だが、彼らにとっての旧約聖書はギリシア語訳の「七十人訳」であるからだ。
 この旧約聖書「七十人訳」と、旧約聖書のヘブライ語原典として用いられる「マソラ本文」とは、少なからずの異同がある。
 さらには死海文書の旧約聖書ヘブライ語文書とも異同がある。
 そして、旧約聖書の歴史を考えるならば、アラム語訳(タルグム)とラテン語訳(ウルガータの旧約聖書箇所)を抜きに語ることはできないだろう。
 だから、宗教的中立性のために「ヘブライ聖書」と言い換える動きは、かなり安直ではないかと考える。
 
 とはいえ、これは僕が市井で聖書を読む趣味人にすぎないからかもしれない。
 世界的には「ヘブライ聖書」と呼ぶのが一般的になったのかもしれない。
 じゃあ、七十人訳のことはどう呼べばいいのか。
 旧約聖書「エレミヤ書」に関していえば、ヘブライ語訳として知られるマソラ本文よりも、ギリシア語訳の七十人訳のほうが原典に近いと言われている。
 死海文書による「エレミヤ書」日本語訳がない今、どうしても七十人訳に頼らなければならないのだが、そうなると「ヘブライ聖書のギリシア語訳」となって、新約聖書を意味する「ギリシア聖書」との混同がまぎらわしい。
 とりあえず「ヘブライ聖書」という呼び方は、今の僕にはとても気持ち悪い、ということを書いてみた。