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田中りえ

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母・田中りえが書いた雑誌掲載などを改めてまとめています。
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2015年1月の記事一覧

「浪人してもワセダに入ろう」<早稲田進学,1984.1>

  わたしは二浪して早稲田に入った。別に、早稲田をねらって浪人したわけではない。高校を卒業するまで、まったく勉強したことがなかったので、一浪のときも受けた大学を全部落ち、もう、ついでだと二浪した。一浪のときはどうせムリだろうと、早稲田は受けなかった。

 今でもよく覚えているが、通っていた予備校の最初の校内模試で、英語はなんと9点、偏差値11だった。要するに、問題はすべてチンプンカンプン、記号のと

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「浪人でもしようか」 小説現代 1985,テーマ:私の少女時代

 勉強はしなくても、中学までは成績がよかったというひとが、よく、いる。わたしも、勉強はまったくしなかったが、成績がよかったのは、小学校二年でオシマイだった。

 小学校のときは、まだ、フツウだったが、中学の成績は悲惨だった。得意科目はひとつもなく、勉強以外のことに熱中していたわけでもなく、運動クラブにはいっても途中でやめ、読んだ本の量も、多くない。

 作文をほめられたのも、小学校二年までだった。

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「文芸科にすすんで」 蒼生 1985.3

 わたしが学生だったときは、三年から専攻別クラスになった。べつに小説を書くつもりもなく、語学の成績が悪いので、仏文や英文はムリだしなあと、軽い気持で文芸科にすすんだ。

 はじめて小説を書いたのは、三年前期のレポートとして小説を書くようにと、平岡先生のゼミで課題がでたときだ。わたしが書いたのは、十五枚足らずの、小説というよりは作文のようなものだった。「レポート」提出後、先生が、「あまりに雑に書いて

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「男と女のモンダイはどこの国も同じ」 週刊サンケイ 1983.10 "私の映画評 『新しい家族』『インタビュアー』"

 去年の秋、シベリア鉄道でソ連を横断した。大平原をただひたすら走っていく汽車の旅は、それはステキだった。そこで、旅行記を書いた。ところが、やっと書き終わったら、なんと大韓航空機撃墜事件。事件直後はモスクワ行の飛行機も飛んでいなかったので、旅行記の出版はどうなる、とわたしはあわてました。やっぱりソ連はこわい国だとみんなはいうけど、ソ連のひとりひとりをこわいと思えない。

 だぶん、このソビエト二大女

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オフィスラブ (野生時代 月日不明)

 ノンノンノン

 オフィスラブ ノンノンノン

 これがわたしたちの合言葉でした。

 わたしたちとは、わたしと雪絵ちゃんです。

 わたしは、去年の4月、某百貨店に入社し、やはり新入社員だった雪絵ちゃんと出あいました。彼女は今年の3月に、わたしは5月に辞めてしまったので、1年足らずの短いあいだでしたが、わたしたちふたりは、

 ノンノンノン

 オフィスラブ ノンノンノン

 を合言葉に仕事ひ

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"生きがい”が必要な人生なんて、さみしい 週刊就職情報 1985.8

 大学を卒業して、一年間、西武デパートに勤めていたとき、組合の機関誌にのせるためのアンケート用紙がまわってきた。それに、「あなたの生きがいはなんですか?」と書いてあった。わたしは、「風呂にはいって、じゅうぶん睡眠をとること」と書いてだした。そのとき、「ああ、生きがいなんてことばがあったっけなあ」と思った。それから五年たったが、「生きがいについて」というテーマで、このエッセイを頼まれるまで、「生きが

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新婚半年だけど、出版界では出戻りなんだ… (調査情報352号 1988.6)

 やっと、二冊目の小説集、「やさしく、ねむって」がでた。

 一冊目の「おやすみなさい、と男たちへ」がでてから、六年もたってしまった。

 「おやすみなさい」から六年たっても、「やさしく、ねむって」では、いつでもねむってばかり。睡眠時間はたっぷりでも、執筆時間はほとんどない、わたしの生活をあらわしているようだ。

 一冊の保にまとめられる量の短編小説を書くのに六年もかかってしまった自分にあきれるい

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「女の外国ひとり旅といっても特別なことはない。日本でできる人ならだれにでもできる」 (大コラム 1985)

 海外のひとり旅といっても、バスか汽車が走っていて、宿がある場所なら、日本でひとりで汽車に乗り、宿をさがして歩けるひとはだれでも、行くことができる。逆にいえば、日本のなかでひとり旅ができないなら、外国でも、やっぱりムリだ。

 わたしは女なので、ひとりで旅行すると、「女のひとり旅」ということになるのだが、外国にひとりで行っても、女だからといって、こわい思いをしたことも、トクしたこともない。五年前、

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