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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2018年10月の記事一覧

集合体

集合体は、機械のようなものではない。それを構成する要素は、機械の部品のようには、集合体を構成しない。集合体を構成する要素は、より自由であり、自身を含む集合体から影響は受けつつも、集合体が目指すのとは異なる動きをすることもできる。 マヌエル・デランダの『社会の新たな哲学』は、社会におけるさまざまな存在を物質的な過程をともなう実在として扱う立場をとる。デランダ自身はそれを「実在論的な社会存在論」と呼んでいる。 社会における実在の存在として、本書でデランダが扱う主要なものは、集

アニメート

本選びの勘が当たった時というのは思いのほか嬉しいものだ。 フリードリヒ・キットラーの『ドラキュラの遺言』を読み終わったあと、それに関連するものを読みたいなと思ってたところ、本屋で『マテリアル・セオリーズ』という本がたまたま目をひいた。映画・映像理論の研究者・北野圭介さんが中心となった対談集で、目次を眺めてなんとなく興味をひかれたので購入。 すこし読み進めて、こんな記述を発見したときは「当たり!」って思った。 メディア論のなかでニュー・マテリアリズムについて語る際、必

マルセル・デュシャンと日本美術/東京国立博物館

フリードリヒ・キットラーは『ドラキュラの遺言』の中で「今日われわれの誰もが承知していながら、決して口にだしては言わないことがある」と前置きした後、口に出すのではなく文字にすることで、こんな指摘をしている。 書くのはもはや人間ではないという事態がそれである。 キットラーの念頭にあるのは、コンピュータによる書字行為である。1993年出版の本のなかでの25年前、四半世紀前の指摘だ。 コンピュータがなければ脱構築もありえなかったと、デリダはズィーゲンの講演会で語った。文

真理とはそれが錯覚であることをひとが忘れてしまった錯覚である

「語というものにあっては、問題となるのはけっして真理でもなければ、適正な表現でもない。そうでなければ、こんなに多くの言語が存在するはずがないからである」とニーチェは言う。 これが「道徳外の意味における真理と嘘について」と未完の短い研究からのものであることは、『歴史・レトリック・立証』でカルロ・ギンズブルグが教えてくれる。少し前にギンズブルグの『闇の歴史』を読んで以来、彼の歴史学にたいする姿勢が面白くて、この本も読みはじめたわけだ。そして、『歴史・レトリック・立証』もまだすこ

ドッペルゲンガー

最近ここでもよく紹介してるフリードリヒ・キットラーの『ドラキュラの遺言』は読んでて、あー、なるほど、と思わせられることが多い。今日もそんな気づきをもらった。こんな記述から。 まさに映画は愚鈍であるがゆえに、かくも多くの書物、わけてもロマン主義の書物に、効果的に取って代わることができるのだ。愚鈍であるがゆえに映画は身体を記憶保存することができる。よく知られているように、身体も映画と同じように愚鈍なのだから。 この話、19世紀ロマン主義の時代に作家や、フロイトやエルンスト