マガジンのカバー画像

言葉とイメージの狭間で

343
ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
運営しているクリエイター

2018年5月の記事一覧

虹の下で

かつて虹の立つところには市が立ったという。そこが神の世と俗世の交通の場所であったからだ。 網野善彦さんは『日本の歴史をよみなおす』でこう書いている。 たとえば虹が立つと、かならずそこに市を立てなくてはならないという慣習が古くからありました。(中略)勝俣さんは、虹の立つところに市を立てるのは、日本だけではなくて、ほかの民族にもそういう慣習があり、それは虹が、あの世とこの世、神の世界と俗界のかけ橋なので、そこでは交易をおこなって神を喜ばさなくてはいけないという観念があった

都市の祝祭

「自然は自分自身の美しさに徹底して無関心だ。ここには人間を途方に暮れさせてしまうような何かがある」。 畠山直哉さんの撮る東京の地下を流れる川の暗渠の写真に写る、ドブネズミの糞の上に生えた「溶かしたガラスを空中に何度も引き伸ばしたようた細い糸状のカビ」が光を浴びてキラキラと美しく光る様に対して、『都市の詩学』の著者である田中純さんは、そう述べている。 人間は古くから自然を眺めてきた。ミメーシス(模倣)を根本原理においたルネサンス絵画以降は、自然は眺められる対象(客体)となっ

エントロピー

最近、無意味化について書いている。 文字通り「無意味」と題したものをはじめ、「偶然」、「白痴化」というnoteを書いた。 この人間が住む社会は意味に覆われている。けれど、その人間が頼りにする意味=価値は、自然の営みとしての風化や腐敗、老いや死などによって失われていく。あるいは、人間が作ったはずの機械や、あるいはそれに似たルールが機能することによる過度の反復が意味を消滅させるような無意味を生みだすこともある。 そうした時間の経過や反復が、意味の無意味化(ガラクタ化)を進める

白痴化する

数日前から田中純さんの『都市の詩学』を読みはじめている。 最初の何章かは、建築家アルド・ロッシを対象に語られるのだが、その内容が前回書いた「無意味」というnoteにリンクする。 「昨今の社会にとって意味あるものばかりを生み出そうとする傾向とは真反対の、そういう無意味化の操作は、人間よりも、機械や、自然が得意だ」と前回のnoteでは書いた。 それはロッシの建築的営みについて評した、こんな言葉に重なってくる。 ロッシが反復によって意味を消滅させた、無意味な建築は、馬鹿馬

無意味

踏みつぶされ、吐きすてられ、ポイと脇に追いやられる、無意味なガラクタ。 逆からみれば、ガラクタをガラクタにするのは、踏みつぶす、吐きすてる、脇に追いやるという、意味があるかもしれないものを無意味化する操作があるからこそなのかもしれない。もし、そうした操作がなければ、ガラクタは無意味なガラクタではなく、意味を有する何らかの品物だったのかもと想像できる。 昨今の社会にとって意味あるものばかりを生み出そうとする傾向とは真反対の、そういう無意味化の操作は、人間よりも、機械や、自然が

偶然

偶然というものの評価にも2つある。 イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウスによる『アンフォルム 無形なものの辞典』は、そのことを教えてくれた。 偶然のひとつの評価の方向性。 それは、シュルレアリスムの提唱者である詩人アンドレ・ブルトンが「客観的偶然」と呼んだものだという。 「客観的偶然」はナジャを亡霊的、魔術的人物と同定し、偶然を欲望の成就と同定され、したがって偶然を、愛、および現実との自由意志的な関係に従属させるのだ。 ここに登場するナジャは、ブルトンの自

意味のある体験

「人々は意味のある体験を求めるようになっている」。 今日デザインハブで観たデザインマネジメントエキスポ2018展で見かけた言葉。といっても、ニュアンスだけ覚えてるだけで、きっと正確ではない。 じゃあ、なんで覚えてるかといえば、その言葉(のニュアンス)にゾッとしたからだ。 展示自体の企画も内容もだいぶ僕にはアレだったのだけれど(なぜ、あれをエキスポと呼んだのかは最大のナゾ!)、こうしたニュアンスの言葉を、デザインマネジメントがなぜ必要なのかという文脈に採用してしまうセンスに

消費性

GW明け、仕事に復帰して2日過ごした。9日間もヨーロッパで仕事から完全に切り離された時間を過ごたあとなので、まだ完全には普段の仕事モードに頭も身体も戻りきっていない感じがある。 その中でこの2日間、面白い気づきもあった。 一言で言えば、人生、仕事だらけで、それ以外の暮らしの部分ってほとんどないのではないか?ということだ。 家事であれ、趣味のことであれ、なんらかの目的をもって、その目標達成のための生産的行為を行っている以上、それは全て仕事ではないか? 目的の達成という生産の

ドラクロワの屍体

ドラクロワが好きだ。 あの何とも猥雑な熱気に満ちた匂いをプンプンと漂わせる作品に惹かれる。 昨日、紹介したパウル・クレーのことが頭で好きだとすれば、ドラクロワは生理的に好きだと言える。 そんなドラクロワの企画展がパリのルーヴル美術館で開催されていたので観た。 ドラクロワの作品をこれだけ集中して観たのははじめての体験だ。 結論から言えば、最高に面白かった。 ドラクロワを一言で言えば屍体愛好家ではないかと思う。 例えば、有名な「民衆を導く自由の女神」だって、そうだ。 タイ

眼にみえるものを再現するのでなく、みえるようにする

GWをドイツで過ごしている(いや、すでに「いた」か)。 旅先ではその土地の美術館を訪れるのが、僕の旅の楽しみ方のひとつ。 滞在先のひとつミュンヘンでは、3つの美術館をはしごした。収蔵品の時代別に、アルテ・ピナコテーク、ノイエ・ピナコテーク、ピナコテーク・デア・モデルネと分かれている。パリで言えば、ルーヴル、オルセー、ポンピドゥのようなものだ。 3つの美術館を1日で見て回ったので、かなり足早に回っても半日以上を費やした。 そのうちの1つ、ピナコテーク・デア・モデルネで運良くパ