生きてることが辛いならくたばる喜びとっておけ
中学の同級生の須原杏ちゃんがバンドのメンバーとして参加している森山直太朗さんの20thアニバーサリーツアー千秋楽公演を観てきました。
『さくら(独唱)』や『夏の終わり』など、私たちの青春時代を併走した名曲を楽しみながら、近年の楽曲に改めて心を彩られたり。
バイオリンのあんずは、ソロパートのかっくぃい見せ場から、"直太朗然"とした曲間のミニコントの一員としての堂々たるちゃめっ気まで、コンサートを支える素晴らしい柱として大活躍で、「はい、はーい!あれ、私の友達でぇーす!」と手を挙げてみんなに自慢したくなるような、素敵な佇まいでコンサートを盛り上げていました。
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何かと窮屈な思いをすることが多かった小学校までの人生がわかりやすくリスタートとなったのが中学受験という経験で、誰ひとり知り合いのいない集団にバリバリの自我を持って飛び込んだ時の緊張は、その後幾度となく「新生活」のタイミングがあったとて、間違いなくあの中学の入学式でのものが最高潮だったと振り返っても思ったりする。
300人余りの同級生とされる女子の大群の中で、入学初日、白いリボンをセーラー服の襟に通して結んで座席に座ったあの時。前の席に座っているこの子と、後ろの席に座っているこの子どちらの女の子に最初に声を掛けようかと逡巡して、「田中」の前に座る「須原」に声を掛けた自分へ。タイムスリップして、左ハネのくせ毛の頭を撫でてあげたいくらい、その選択を褒め称えたい。おめめがぱっちりのショートカットの彼女は、最高にキュートで楽しい女の子だったから。
V6の森田剛が好きだったあんずは、勉強もスポーツもできたし私とは特にこれといって趣味が合ったわけじゃなかったけど、皆散り散りに違う場所からやってきて、同じ学校でこれから6年暮らせねばならぬと命じられた言いしれない切迫感と女子だけの集団特有のゴタゴタ(中1のそれなので所詮可愛い)で何かと軋轢の多かった教室の中で、とても心地よい脱力感をもたらしてくれた。
「ここでこれから生きていくのだ」というものすごい覚悟のせいで尖り散らかしていた私にも彼女は優しく、『爆笑オンエアバトル』という番組の素晴らしさを一方的によく語った気がするし、大人になってからも会うと必ず「やすこと一緒に帰った時に東横のれん街の前でドランクドラゴンの鈴木拓に会ったじゃん?それで握手してもらったよね。あれ、人生で初めて芸能人と握手した思い出」と、全くもって貸しになってないエピソードをありがたがって話してくれることからもわかるように、とにかく底抜けに良い奴だった。中学2年と3年はクラスが別れたけど、時折約束してはアヴァンギャルドすぎる遊びもまぁまぁした(酒とかタバコとか男女の類じゃない、話すと引かれるタイプのやつだ。でも、すげー面白かった)。うちの実家に遊びに来た最初の友達でもあったと記憶している。
でも、私は自分のことしか考えてないバカだったから、あんずが誰にも内緒で習っていたバイオリンを弾くということをすごく大事にしていて、その道に進むために高校は外部に進学する決断をしたことなんて気づかぬまま、別れる時になって、慌てて悲しくなり、そして母校から彼女を送り出した。
高校に進んでからも、高校でカレー部に入ったよ、とか、隣にある都立駒場高校のサッカー部の子たちを教室から眺めてキャーキャー言ったりするよ、という話を聞く機会があった気がする。
大学時代や社会人になってからもたまに飲んだり、道でばったり会って、バイオリン屋さんについていったこともある。でも特に運命的だった出来事がひとつある。
私は当時の仕事で岩下の新生姜の岩下社長にとあるプレゼンをする機会があり、音楽の話を随分して、数時間話し込んだ日。岩下社長が「今日このあと、近くのライブハウスで好きなアーティストのライブがあって、お時間あったら一緒にいかがですか?」と誘ってくださり、そういった誘いは絶対に断らないと決めている私は何の情報もないままワクワクしながらご同行した。ASA-CHANG&巡礼なるそのバンドのメンバーのひとりが、何を隠そう同級生のあんずだったのである。
あまりのことににわかに信じられず、ライブ中何回も目を凝らして確認した。終演後、岩下社長に「あの、バイオリンとかギターやってた子、たぶん同級生です」と告げ、物販の列に並び再会した。こんなに”おもしれーこと”をやっているのに、あんまり人におおっぴらに言わない感じ、めちゃめちゃあんずだなー!ってなった。
この人はいつも、天真爛漫なくせに照れ屋さんで、自分の素敵さを過剰に謙遜したりはしないけど、無邪気に控えめなところがある。
でもきっとそれが、多くのアーティストのストリングスに抜擢される、彼女の表現者としてのバランス感覚なのだろうと今は理解ができる。
ある年には紅白歌合戦でアーティストのうしろでバイオリンを弾きながら優雅にしかし可憐に揺れる姿を観たし、ただ普通に生きてても彼女の名前が目に飛び込んでくることは年々増えていった。ありがたいことに結婚式にも呼んでくれて、たった数年仲良かっただけなのに、数多の列席陣を抑えビンゴ大会で特賞の屋形船ペアチケットまで当てて帰らせてもらった図々しい縁もある。
平和で忙しない時を生きる私たちは何かと言い訳をして旧友に会う機会を先延ばしにする。そうしていると容赦なく日々、時間は経っていく。でもひょんなことから。あぁ、本当にいつぶりだろうというタイミングで、あんずとふたりで飲んだのが少し前。
記憶の中のペカペカした可愛いあんずの印象を塗り替えるぐらいに感じたのが「私は、こんなにもピュアな人と友達だったのか」という衝撃だった。
頭は変わらず良いし、良いヤツなのは昔から。でも、こんなに、これほどまでに、まっすぐで曇りない人だったかと、すごく驚いた。
驚いたってのは、自分が、こんなに柔らかくて透明な人と仲良くできていたことに。ピュアっていうのは、無知とは違う。知性と優しさを持った人に与えられる称号のような尊さがある。だから「懐かしいね〜あの頃はバカだったよね〜」と話しながら、妙にずっと感動していて、そして改めてこんな友達を自分の人生に与えてくれた神様なるものに感謝?陳謝?した。
そんなあんずに誘ってもらい、彼女がバックバンドメンバーとして参加する森山直太朗さんの20thアニバーサリーコンサート「素晴らしい世界」を観に行ってきた(ようやくのダ・カーポ)
森山直太朗さんの作る曲と歌声は、人生をそこそこ進んだ大人のハートにはあまりにも沁み過ぎて素晴らしく。
そしてあんずのバイオリンも、贔屓目抜きにそのピュアさでもって、豊かな調べを奏でていた。とても、楽しそうに、幸せそうに。それはまた、彼女が今まで私に見せてはくれなかった高潔で美しい姿だった。
平凡な自分の人生だけど、めっちゃ死にてぇと思うことはもちろんある。ひとつもうまくいかねぇじゃねえかよ!とか悪態つく日もある。心がささくれてやってらんない瞬間なんて、そこそこの確率である。
でも森山直太朗さんが「生きてることが辛いなら 嫌になるまで生きるがいい」と歌ったように、12歳からの仲の照れ屋な友人が、未だに自分に「新しい顔」を見せつけてくるのであれば、なるほどそれはまったく呆れたことで、こんなことをされちゃあまだまだ生きなきゃいけないじゃないかと思わされる。
でもきっと、「私がもうちょっと生きる理由をくれてありがとう」なんて言ったとしても、その友人は妙にかしこまって困った顔をするだろうから。
次に会った時も、思いきり笑わせたい。そういうふうでありたい。もはや人間じゃなくなるその日まで、私は彼女の「新しい顔」に出会いたいし、私も彼女に「素晴らしい世界だ」と思わせるような何かをプレゼントしたい。そう思った。
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