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ABA/X 第三円 「梁の上」

市内に点在するシュインズと呼ばれる場外算劇場で、弾は今にでも飛びかかりたい気持ちを必死に堪えながら栗上を睨み続ける。
アンザンテリブルを出て帰宅する自分を追ってきたニシュレンの男から初めに発せられた言葉はかつて自分が熱中した算賊狩りのことだった気がするが、すでにはっきりとは覚えていない。自分の中で憎しみに変わっている算盤を突かれた怒りが爆発しそうになったのもそうだが、二進も三進も行かないと思ったのであろう男が切り札のように出してきた言葉が全てを上書きした。

「君の殺された母親のことを知りたくないか?」
殺されたという言葉の意味を思い出すのに6秒を要した。メニュー表の金額を足して引いたより遥かに長い時間だった。

あの算賊狩りのDANに違いないという確信があったわけではなかった。年齢的には一致しているが、ダンと読む名前はそんなに珍しいものではなかったし、ソロバニスタから漂うオーラのようなものも感じられない。歳月が人を変えてしまったのかもしれないが、どちらかといえば算賊狩りというよりも算賊そのもの、市内で発生している算盤狩りの犯人だと言われる方がしっくりくる印象だ。それならそれで聞きたいことがある。店を出て彼を探すと、沈んでいく夕陽のように首をすぼめて歩く後ろ姿が遠くに見えた。

鋭い眼差しを向けられたのは眼前の男に「サンセット」や「算賊狩り」という単語を出してすぐのことだった。殺意に近いものを感じる。
「さっきは一遠さんの店だから我慢したけどよ、俺は算盤もてめえらニシュレンも死ぬほど嫌いなんだよ。さっさと失せろ、ぶち殺すぞ」
ニシュレンに対する敵意をぶつけられることはままある。世界最大のエンターテインメントとして隆盛を極める算盤に関わるビジネスをほぼ独占しているニシュレンは、国内の大手広告代理店のようなヘイトを一心に集める存在でもあったし、実際に巨大組織の力で様々な無理を通してきた。
しかしひとりの学生がここまで算盤に恨みを抱くのは栗上にはショックでもあり、それが珠史編算室で見たあの珠尾計の資料と密接に関わっているように思えた。
何を聞いても答えようとしない男に、まだ断定できないあのことを、奥の手のような気持ちで放り投げる。

「君の殺された母親のことを知りたくないか?」
言いながら心が痛んだが、相手の表情が自分が珠尾弾であることを物語っていた。

いなくなった母が死んだことは父から聞かされた。病気で入院していたような説明をされた覚えがあるが、周りの視線や薄々あった違和感が積み重なり、ある日書店の入口横のラックに陳列された雑誌の週刊文珠の表紙に「最期は壮絶死、珠尾計の転落人生」とあるのが目に入ったのを、近くを通りかかった大人が慌てて隠したことが決定打となり、母が逮捕されていたことを知った。

あれほど算盤を愛していた母が不正に手を染めていたことが信じられなかったし、今まで楽しんでいただけの算盤が、人の人生を破滅させるような存在だったことが吐き気を催すほどに気持ち悪く感じられた。それからほどなくして、弾は算盤を触ることをやめた。父は何も言わず、することがなくなった息子を案じて週末はスポーツや音楽など様々な理由で外へ連れ出したが、どれも弾に開いた隙間を埋めるには至らず、年々親子の会話も減り続けている。

中学に上がる頃には、同級生たちが一心不乱に珠を弾くようになった。自分のようにソロバニスタの子供で幼少期から算盤に触れる者もいれば、中学の部活から本格的に始める者もいる。特にここ数年でニシュレンの広報活動もあってかスターソロバニスタが次々と誕生しており、月曜日の朝にはクラスで「昨日の一乗掛(いちじょうかける)の試合見たか?凄かったよなあ」といった会話が当たり前のように交わされていた。

気持ち悪い。

数字を速く正確に動かすことを絶対的な正義として、それができる者は喝采を浴び、自分もそうなれるようにと目を輝かせて珠を弾き出す。そんな人々の熱狂の輪に全身をぎゅうぎゅうに締めつけられているようで息ができなくなりそうだった。
鳴に強引に引っ張られなければとっくに不登校になっていただろう。
自分を苦しめる算盤にも、そこに一喜一憂する人々にも、もはや憎しみしか残っていなかった。

「殺された」
珠尾弾と確定したその男がぼそっと漏らし、今自分の喉奥で精製され、口内から発射された言葉の意味を考えている数秒の間、栗上は黙って弾を見つめ、それから口を開いた。
「君の母、珠尾計さんは拘置所内で珠乱死体で発見された。だから殺されたなんて思った人間は当時誰もいなかったし、君だってそうだ」
栗上は淡々と原稿を読み上げるように言う。
「当たり前だろうが。適当なこと抜かしてんじゃねえぞてめえ」
考えもしなかった可能性を提示されて動揺したものの、弾には現実味のある話に聞こえない。

「ところが、だ。最新の研究で分かったんだよ」
栗上は珠気帯びから珠乱の状態になるには継続的な珠気の取り込みが必要になること、拘束されていた計本人にはそれは不可能であることを端的に伝える。
「じゃあ誰に殺されたんだよ。警察か?あ?」
弾は投げやりに言って苦悶の表情を浮かべる。
「それを知っている人物に心当たりがある」
「教えろ」
その言葉を待っていた。栗上は腕時計に目をやって、シュインズの閉場までの時間を逆算する。

「君が私に算盤で勝ったら教えよう、その代わり負けたら私の頼みを聞いてほしいんだ」
栗上と名乗る男はそう言って市内のシュインズで自分と一戦交えることを提案してきた。
「算盤だと?」
自分の顔に血管が浮いてくるのがわかる。自分が一番やりたくないことを要求されているからだ。そんなことをするくらいなら目の前の栗上を締め上げて吐かせた方が手っ取り早い。開いていた拳を強く握った。
「言っておくがそれ以外の方法で一切君の要望に答える気はない。どうする?自信がないかい?」
もはや算盤に憧れを抱いていない弾にとってその挑発は無意味だったが、栗上が本気で言っていることだけは伝わってきた。この男は吐かない。

触るのか、あの積層強化木でできた黒色の枠を。梁で分けられた五珠(ごだま)と一珠(いちだま)を。母の尊厳と命を奪った算盤を。
母の顔が浮かんだ。褒めてくれた時の笑顔だ。めきめきと力をつけていく自分の頭を撫でながら
「弾は梁の上の五珠かもしれないね」と笑う母を思い出す。

あの時は意味がわからなかったが、どんなに算盤を頑張っていても挫折してやめてしまったり、自身に絶望していく者たちを目の当たりにしてきたことで、この世には一流になれる一握りの人間が梁の上にいて、その他大勢が梁の下でもがいているのかもしれないと今なら思う。
母は間違いなく梁の上にいた。それを引き摺り下ろした人間がどこかにいる。
「許すな」という自分の声が響く。栗上はすでにポケットから鍵を取り出し、すぐ側にある駐車場へ向かっている。プレートに「珠 59 か 87-3」の数字が刻まれているのが見える。4956だ。

珠市第6シュインズの算劇室B-15のドアを開ける。有人の読み上げによるA室ではなく、専用の機械に条件をセットしてランダムに問題と解答を自動生成する無人のB室を選んだのは、ニシュレン職員と高校生によるこの戦いの顛末が栗上自身にもわかりかねていたからで、余計なことを見聞きする人間はいない方が都合がよかったからだ。

「カバ玉の23でいいな?」
室内に用意された豊富な種類の算盤から、初心者から上級者まで使える最もスタンダードな茶色いカバ玉で作られた23桁算盤を手に取って言う。
栗上の車には自身が使い込むことで指の脂が染み込んだ珠が黄色から飴色に変わったツゲ玉の算盤が積まれているが、公平を期すために同じものを選ぶことにした。
「何だっていい」
弾はそう言って渡されたケースを受け取ると、フックに指をかけ、一気にファスナーを下ろした。
「問題の希望はあるか」
弾が先ほどと同じ言葉を繰り返す前に続ける。
「何だっていいなら、掛け算、割り算、見取り算の3つにする。伝票算は要らないだろう」

難易度を算賊狩りの最終ステージと同程度に設定し、解答は終了後に印刷されるようにするなど諸々の条件をセットし終えると3種類の問題が2部ずつ裏向きに出力される。同時にタイマーで算劇開始までのカウントダウンが開始された。
部屋の東西に設置された長机にそれぞれ均等に問題が配られてから2人は対峙し、呼吸を整えた。
栗上の目にはすでに取り出した23桁算盤がバトンに視えている。学生時代に陸上の選手でもあった栗上は、完璧に決まったバトンリレーのようなスムーズな珠運びを得意とし、派手さはないがロスの少ない堅実な算盤を打つタイプだった。
カウントダウンの続く中、バトンのようにギュッと算盤を握りしめて待つ。
相手から見たら滑稽だろうなと思ったその時、背筋の凍る感覚があった。

取り出した算盤をじっと見つめる。最後に触ったのはいつ以来だろうか。
算賊狩りで出したスコアが未だに破られていないことは知っている。しかしこれは人間との勝負。母以外との戦いをほとんど経験していない弾には、自分を捻り潰そうとするような気迫で向かってくる相手との一戦は初めてのことだし、今の自分の実力やニシュレンの職員として登用される人間の実力など、わからないことばかりだった。
それでも、と弾は考える。
母の死には真相があって、それを知る手がかりがあるのなら。
自分から母を奪った存在が、この世のどこかにいるのなら。
張り詰めた空気の中で目を閉じる。
「許すな」という声がもう一度響く。
弾は静かに目を開けて、相手を指すようにして右手で算盤を持ち、左手を添えた。
「撃ち殺してやる」
算賊を狩る時の自分を思い出す。

そんなはずはない、と瞬きを2回した。
算盤の擬物化は自分と算盤のシンクロナイズであり、他者への影響はないはずだった。
集中力、記憶力など珠力を構成するいくつかの要素のひとつであるイメージ力がどれだけズバ抜けていたとしても、対戦相手にまでそのイメージが伝播するなどという例は聞いたことがない。
だとしたら、今自分が見ているものはなんだ。
自分に突きつけられているものはなんだ。

「散弾銃、いや、算弾銃か」
向けられた銃口を睨み返し、握るバトンに力を込める。タイマーの数字が減っていく。
「用意」
音声プログラムが無機質な声を出す。
「始め」
紙をめくる音が東西で鳴った。

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