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ABA/X 第二円 「珠史編算室」

それがニシュレンの印象操作の賜物であると当時の弾には知る由もないが、母のことで冷たい視線を浴びることはあまりなかった。どちらかといえば自分にも、そして母にも同情的な声が寄せられていたと思う。実際に罪を犯す者は多くないが、算盤に携わる人間であれば誰しも、一度は「珠気」の人工的な取り込みに手を染める自分を、そして縦横無尽に盤上を滑空する自分の姿を寝る前に想像したことがあったからだ。

この世界に満ちる珠気という粒子は、人間の体内に取り込まれることで大脳にある珠脳と呼ばれる部分を刺激し、神経の伝導速度を向上させる働きがある。
ただし一定量を超えると血中算素濃度の異常を引き起こし、混乱や幻覚など人体に有害な作用をもたらす恐れがあるため、珠気を意図的に採取して所持する行為は規制されている。また大会前のソロバニスタは必ず血中算素濃度のチェックをパスしなければならず、基準値を外れると出場資格を失い、また通常の人間ではあり得ない異常値を計測した者は珠気帯びの現行犯で逮捕される。
捜索差押許可状を持った警官が発見したのはひとつの小瓶だった。専用の機器で分析してから中身が珠気の集まりであると結果が出るまでの3分ほどの間に、計の血中算素濃度の測定は終了し、その場で手首の自由が失われた。

自分の才能は母譲りであると物心ついた時から気づいていたし、弾にはそれが誇りでもあった。
息子を産んでからも算休前と変わらない戦績を残し続けた母は、同じ頃誕生したニシュレン初の女性理事、算浪蘭(さんなみらん)の唱える男女平等算画社会を体現する女性ソロバニスタの1人であったし、生活の中で目に入る数字を全て加減乗除しようとしてしまう息子に算盤を与え、的確な指導によって才能を伸ばしてきた師でもあった。
母がどこかへ行ってからそれがどこであるのかを知るまでの長くて短い間、弾はゲームセンター「サンセット」に父が迎えにくるまでの間、店主にサービスボタンを押してもらったゲーム機をプレイし続けていた。

元々父が競馬のメダルゲームをしている最中に年齢に見合わない好記録を出すことはあったが、5歳を迎えてからの伸びは凄まじく、ほんの数日で1位からの10位までのスコアを独占した。
ソロバニスタの才能がある者は自分の持つ算盤を別の何かにイメージすることがある。音楽をやっている者は楽器だったり車に乗る者はハンドルだったり、自分だけの相棒に擬物化することで珠脳の働きを飛躍的に活性化させるのだ。
弾もこの時、算盤状のコントローラーがうっすらと別の何かに視えていた。それが何なのか5歳児にはわからないまま「だだだだだーん、だだだだだーん」と言いながら敵を倒していく。また今日も世界に平和が訪れる頃父の合(ごう)が迎えにきて、手を引かれてサンセットを後にする。いつも繋いでいた手はこんなに弱々しかっただろうか。

ニシュレンの中でも一部の珠任技術者しか立ち入ることのできない珠史編算室で、栗上は当時の資料に目を通していた。ソロバニスタ、とりわけ上位ランカーが逮捕された事件には高度な珠秘義務が課されており、職員でも行く末を知る者は少ない。たまたま立ち寄ったサンセットで店主から聞いた少年の名字は、自分が中学生の頃に憧れていたプレイヤーの1人と同じであったし、彼女が逮捕された当時の衝撃を思い出させるには十分だった。報道は同情的だったので、罪を償った後に復帰していてもおかしくはないはずだが、現在まで表舞台には姿を見せていない。ページをめくる手が止まった。
「なんだと…?」

珠尾計。珠気帯びの現行犯で逮捕から58日後、珠拘置所内において珠乱死体となっているのを看守が発見。報道規制を敷き内々に処理、といった内容が記されている。警察でもないニシュレンにこのような情報があることに今さら驚きはない。問題は日数だ。最新の研究でわかったことだが、珠気帯びの人間が完全に自我を失う状態の珠乱になるには、長期間に渡る継続的な珠気の人工取り込みが必要になる。しかし珠尾計が珠乱死体として発見されたのは逮捕から約2ヶ月後。拘束されていた計にそのような真似ができるはずがない。少なくとも自分では。
栗上は資料を閉じ珠史編算室を出た後、入口に立つ珠衛の胸ポケットに紙幣を追加した。

「何度目だ串井てめえ」
雄大な体で弾の前に立ち塞がる串井光(くしいひかり)を鋭く睨みつけて弾が言った。
「クッシーも懲りないね」と悠郎が肩をすくめる。ちょうど別れ道だったこともあり、弾を残して3人は帰っていった。やられる心配を微塵もしていないからだ。
「うるせえ、昨日までの俺と思ってんじゃねえぞ。今日は俺史上最強の日だからよ」
串井が首を鳴らしながら薄く笑い、今にも飛びかかろうとした時、道の向こうから声が聞こえた。
「光くんじゃん、どうしたのこんなとこまで」
帰宅途中の鳴はそう言って、小学生の時に隣の一位(いちくら)市に転校していった串井に微笑んだ。

「鳴、あっち行ってろ」
今から殴り合う姿を幼馴染に見せたくない弾はそう言って鳴を遠ざけようとする。おそらく串井も同じように振る舞うだろう。緊張感を保ったまま眼前の大男を見据えると、串井が鳴に答えた。
「い、いい妹の誕生日プレゼント選びっす!」
途端に殺気が抜けていくのが見て取れる。弾はきょとんとしてその場に立ち尽くし、そういえば串井が“そう”だったことを思い出した。
「へえ、いいお兄さんやってるじゃん。タマちゃんも見習いなよ」
「俺に妹いねえだろうが。あと絶対にその名前で呼ぶんじゃねえ」
弾が喧嘩の場から徹底して鳴を遠ざけてきたのは、危険が及ばないようにと同じくらい、人前で幼い頃からの呼び名で呼ばれたくないという思いが大きい。ましてや串井の前では尚更だ。
「ねえここで立ち話するくらいなら2人ともウチでジュースでも飲んでお金落としてってよ」
最悪な提案をどうやって却下しようと考える間もなく肩を掴まれる。
「行こうぜ、タマちゃん!」
次に会った時に2回殺すと決めた。

「金づるを連れてきたよー」と言いながらアンザンテリブルのドアを開けて、鳴は2人を奥の席へ通し自分のかばんもそこに置いてから、入念に手を洗ってエプロンを取り出した。弾と串井は押し黙ったままなぜこんな事になったのかを考える。
先に口を開いたのは串井だった。
「鳴さんの頼みを断るわけにいかねえだろ」
「何も言ってねえよ」
刺々しい雰囲気の中、鳴に向けてキッチンから総の声が響く。
「珠トーレンとノンアルコール算グリアのセット上がったぞ」

2人はとりあえず料理に舌鼓を打ち、手が空いた総からかけられる声に「うす」であるとか「ざす」などの返事をして、鳴のからかいに弾は憤慨し串井は赤面した。本当は気づいていたのだろうな、と弾は考える。自分が算盤を捨てて喧嘩に明け暮れるようになってからずっと、鳴は喧嘩をやめるよう泣いたり騒いだりしたことはなかった。その代わりあらゆるやり方で毒気を抜いてくる。今日のように未然に防いできた喧嘩の桁数はすでに繰り上がっているだろう。
メニュー表に並ぶ料理の金額を上から全て足して合計を求め、その合計からまたひとつひとつの料金を引いて0にするという、算盤を嗜む者が飲食店で無意識に行う自然現象に4秒ほど費やしている間に串井がトイレに立ったので、弾は財布を取り出してレジに向かった。

「美味かったっす」と言って紙幣を置くと
「でしょう?ニシュレンガイドの人も断ってもまた来るくらいなんだから」と鳴が口を挟む。それも納得だと思えるほど、子供の頃から食べてきた総の珠食は絶品だった。かつて誕生日にお子様ランチを食べた時にはあまりの衝撃に天地がひっくり返るような思いをしたものだ。
「何で断ってんですか」
素直にそう聞いた。総は小さくため息をついて
「そんな捌き切れないほどの行列ができたっていいことなんかねえよ。お前らとこんな話をする時間だってなくなっちまうしな。」と返す。
地域の客を大事にしたいという意味なのだろう。アンザンテリブルではその日誕生日を迎えた子供に、自分の名字になぞらえて料理を1円で提供するという特別サービスを行っていたし、昔も今も近隣の住民たちに愛される紛れもない名店だ。この人らしいな、と思ったと同時に店のドアが開いた。

「失礼します」と言ってスーツの男が入ってくる。もしかしたらこの男がニシュレンの人間なのかもしれないとすぐに感じたのは、総の表情が曇ったからだ。苦笑いした鳴が「そうだよ」とでも言うように片目を閉じる。
「あのさあ、いい加減にしてくれないか。ニシュレンてのはそんなに載せる店がないのかい。」
いつものように総が左手を振る。
「いいお店はたくさんあります。しかし我々が掲載したいのは、こちらの算元豚のカツカレーのような珠玉の逸品だけなのです」
男も応戦するが相手にされる様子はない。
そのうちに遠くでドアの開く音と水の流れる音がした。串井が戻ってくる。その面倒さとこの状況の気まずさに耐えかねた弾は「じゃ、俺は」と言って店を出ようとした。
すると総がーーーそんなことはあり得ないと考えたからなのだろうがーーー弾とニシュレンの男を同時に見やりながら
「そうだな、また弾くんが算盤を始めでもしたら、載せてやってもいいかもな」と笑った。
どんな顔をしていいかわからず無言で立ち去ろうとした時、ニシュレンの男が振り返って言った。

「弾…?」

栗上の脳裏に算賊狩りのスコアが浮かんでいる。血中算素濃度の高まりを感じる。

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