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【私論】高山真と映画『エゴイスト』

 2023年2月24日(金)、私はテアトル新宿で催された映画『エゴイスト』の原作者である作家・エッセイストの高山真の人となりについて語るトークイベント「原作者・高山真とは」に登壇した。普段は裏方で、書く人である私が徒手空拳でトークイベントに挑めるはずもなく、事前にそれ相応の準備をして臨んだものの、人前で話すことに緊張してしまった私にとってハードルはあまりにも高く、用意したことの1割も話せない体たらくであった。しかしせっかく準備したことをこのまま埋もれさせてしまうのは、小説や映画をより深く味わいたい方や、高山真がどんな人物であったかを知りたい方にとっての損失になるのではないかと感じ、本来の「書く人」である私に戻り、学生時代から30年来の友人であった高山真について、少し書き残しておこうと思う。


■高山真はどんな人物だったのか?

 トークのテーマであった「高山真とはどんな人物だったのか」であるが、「一筋縄ではいかない人」というのが一番端的な表現だろう。もちろん、人というのは誰もが多面的であり、相対する人やオケージョンによってその場に合った“顔”を使い分けているものだ。しかし高山は場や人に相対するために作り出したペルソナごとに自分で拵えた名前とキャラクターを与え、その人物を演じ切ることのできる人であったのが最大の特徴だと私は考えている。もちろんそのペルソナはすべて本人のパーソナリティに結びついており、それぞれがオルターエゴ(別人格)であった、というのが相応しい形容ではないかと思う。

 高山は十代の頃から三島由紀夫の小説『禁色』の登場人物である強欲でグラマラスな鏑木元伯爵夫人に憧れてその生き方に感銘を受けたり、映画『疑惑』で老獪なクラブママ役を演じた女優山田五十鈴へシンパシーを感じていたりなどしていたそうなので、性別やセクシュアリティを超越した「傲岸不遜なババア」という存在への憧憬は早くからあったようだ。また映画『死刑台のエレベーター』『突然炎のごとく』のジャンヌ・モロー、『モロッコ』のマレーネ・ディートリッヒ、『旅情』のキャサリン・ヘプバーン、『ひまわり』のソフィア・ローレン、『追憶』のバーブラ・ストライサンドなど、自立した強い女たちのこともこよなく愛していた。高山は編集者のときにジャンヌ・モローにインタビューできたことは一生の宝物だとよく言っており、高山からの「あなたのように人生の長い時間で輝くために必要なことは?」という質問には「好奇心。そしてそれを分かち合える人の存在」と答えてもらったそうだ。それは高山も生きる上でとても大切にしていたことである。そしてシモーヌ・ヴェイユスーザン・ソンタグの著作を愛読、その考えを精神的支柱としていたことも大きく影響している。

 オルターエゴに話を戻そう。普段はペンネームである高山真を中心として、主に親しい友人たちに対して見せていた“ババア性”を纏うための存在である五十鈴(晩年にショウビズ系の記事を書く際にペンネーム「五十鈴おばあちゃん」としても使用)、ヘテロセクシュアルの友人たちの前で傲岸不遜に立ち振る舞う存在の◯◯◯姐(◯◯◯には本名の下の名前が入り、姐は「ネエ」と読む)、そして公的な場での本名(編集者時代には仕事で使用)、この4つの名前を適宜使い分けていた。そしてその間にはそれぞれ頑丈な仕切りがあり、特定のペルソナと相対する人には基本的にその仕切りを越えて交友関係を行き来させない、というルールがあったように思う。高山の死後、仕切りを越えて親しい人たちが集まる機会があったが、それぞれに見せているペルソナが違っていたのは非常に興味深いことであった。小説や映画でも言及されている、高山にとっての服=鎧と同様、自分で拵えた名前とキャラクターを纏うことも鎧としていたのであろう。それだけに、本名を知っているごく親しい人たちに対しては自分の心の内を見せていたように思う。だからこそ名前で呼ばれ、心の一番柔らかい部分を見せていた、映画『エゴイスト』で宮沢氷魚さんが演じた恋人・龍太のモデルであったRを、ほとんど誰にも引き合わせなかったのだろう。

 もちろん共通していたこともある。高山の基本的な行動原理は“愛”であるが、圧倒的な知識量と語彙力を駆使して話をするため、憎らしいほど弁が立ち、相手にわかるかわからないかの絶妙な匙加減で当て擦りをしたり、言い得て妙な一言で場を支配することもしばしばあった。ただ言葉遣いは丁寧だが慇懃無礼なところがあり、ノーブルと下世話が同時に発露し、話に虚実皮膜な部分があったため、それを愛(面白い)と取るか毒(ひどい)と取るかは人それぞれだった。そして高山の目と耳は異常なまでに研ぎ澄まされており、一度目にしたこと、耳にしたことを忘れないという抜群の記憶力の持ち主(学校の勉強や仕事の取材でもほとんどノートを取らず、著書『羽生結弦は助走をしない』もほぼ記憶だけで書いたと話していた)であり、人との出会いや面白いネタに遭遇することに関しては恐ろしいまでの引きを持っていた。そして写真を撮られることを嫌い、驚くと「まあ!」と嬌声を上げ、得心すると「ええ、本当に!」と言い放ち、一人称はどこでも、誰に対しても「あたくし」であった。

 高山は話がつまらない人、面識もないのに馴れ馴れしい人、無礼な人などには全く興味を示さず、そうした態度の人たちに対して攻撃的になることも多々あったが、これも「あなたには興味がありませんよ」という高山なりの逆説的な愛(関わることを端から拒絶し、お互いに無駄な時間を過ごさないため)であったのだろうと思う。また愛ゆえに「つい意地悪したくなる」という人たちもおり(猛獣が戯れに小動物を愛玩するような状態なので、小動物は必死に抵抗するも瀕死状態)、彼らを撫で斬りにすることを楽しみとしていた。この逆説的な愛について、“ひとり圧力団体”を自称していた高山は各所で数多くのエピソードを残しているが、語るに忍びないためここでは言及しない(それはその場で消え行く酒場の会話で)。

 また美味しい食べ物が大好きで、しかも常人の倍以上の量を食すかなりの健啖家であったことも付記しておきたい(そのためよくダイエットとリバウンドを繰り返していた)。酒はほとんど嗜まず(シャンパーニュのクリュッグ・グラン・キュヴェとルイ・ロデレールのクリスタルを好んでいた)、東京・京橋にあったパティスリー「イデミ スギノ」をこよなく愛し、「主たるエネルギー源はケーキ」と豪語するほどの甘党で、若い頃から紙巻きのマールボロ・メンソール一本槍の愛煙家だった。スポーツはテニス(高校と大学ではプレーもしていた)とフィギュアスケート観戦を好んだ。

 ファッションも大好きで、ドルチェ&ガッバーナグッチコム・デ・ギャルソンなどを愛していた。しかし決してお洒落というわけではなく、ファッションというジャンルの愛好家であり、且つ独自の視点から選ばれたアイテムを自分なりに着こなす“ファッション・ヴィクティム”という形容の方がしっくり来るだろう。高山にとって服=鎧であるため、傍目から見て「この人は普通ではない」と感じさせる威嚇であり、毒を持つ虫が纏っている警告色のような意味合いがあったのだと思う。そして各種レザーやファーも好んでいたため“歩くワシントン条約違反”などと自嘲し、ビーズ刺繍が施されたTシャツやデニムなどもお気に入りのアイテムであった。街中ではグラフハリー・ウィンストンのショーウィンドウを覗いては、大きな宝石をため息混じりに眺め、カルティエのミステリークロックを所望するなど、美への感度も非常に高い人物だった。

■小説で描かれたことは本当にあったのか?

 小説『エゴイスト』で描かれた物語は、本当に高山の身に起きた出来事をベースにしている。高山が30代のときに20代のRという名の彼と出会い、身請けをして生活のためのお金を渡し、彼の母との関係性も生まれ、数年後にRを亡くした。しかしエピソードのディティールは小説としての虚構を纏っており、Rと母が住んでいた場所など事実から大きく改変している部分もある。しかしそれはこの小説が自分の身にあった出来事を物語として昇華し、贖いとすることが目的であり、書き手である高山真にとっての宿命であったことが影響しているのだと思う。「これは書いておかないといけない」とRを喪った後によく話していたし、煩悶しながら一文一文を書いたとも語っていた。

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