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デキアタ化現象への処方箋

ある日の夕食時。
息子(6歳)が冷蔵庫からお茶の入ったガラスピッチャーを取り出し、キッチンカウンターに置いた自分のコップにお茶を注げるようになっていた。
身長約120cmの世界では、キッチンカウンターは高く、2リットルのピッチャーも結構重い。なんかいろいろグラグラしていて、見ている方はハラハラするけど、本人は一生懸命「ヨイショ、ヨイショ」とやり切った。
すごいな、成長したな、と喜びを感じる瞬間だった。

でもきっとそのうち、そんなことは「当たり前」になってしまうだろう。

「お茶を自分で入れる」ことも、「それの何がすごいの?」となる。
出来て当たり前、になる。
(上記、一連の現象を『デキアタ化』と呼びたい)

そしてそんな喜びなぞ忘れ、二桁の引き算ができないことや跳び箱がうまく飛べないこと等に、親子でヤキモキしていくのだろう。

社会という共同体の価値観に浸りきった大人は、こどもにもその同じ縄を綯い、多くの「当たり前」を強要しようとする。
それがどんな時代のどんな文明であろうとたぶん同じだろう。
それができないと将来、その文明社会ではやっていけない。
「それはできて当たり前だ」と、世間はいう。

一つできれば、デキアタ化し、さらにその先の「社会的に上位」とされるテクニックや高評価が求められる世界へ流される。
まるでそれが人生の美徳かのように。
人の生きる目的かのように。

そうやって無意識に数知れない「当たり前」を積み上げることを強要され、荷重をかけられることにより、プレッシャーが生まれる。
もっとできるように、他の人よりもっと高く。
そういう自己の意思ではない社会的要因により、積み上げられた高台には、本当に自身が安らげるような平地はないだろうと思う。
誰かを見下しやすくはなるだろうが。

幼少期は、色々と些細なことでも、できたら褒められる。
画用紙にクレヨンで適当に絵を描いても、
お皿をテーブルに運んだりしても、
その「行為」ができたことに対して、親は喜んでくれる。

息子について、もっとさかのぼれば、
初めて私と目が合ったことも
初めて歩いたことも
初めて「ちち、おはよ」と言ってくれたことも
初めてひとりでトイレができるようになったことも
そうやって今、あなたが生まれて息をしていることも
あのときの喜びは、日常化して
いつの間にか当たり前になってしまっている。

それが悪いこととは思わないが、そういう「幻想」の中に入り浸るのはあまり健全ではないだろうと思う。ある意味、現実逃避にも思える。
「当たり前」は、個人や社会がつくった「幻想」にすぎない。

その「幻想」を打ち破りたいと思ったとき、そういったデキアタがすべて打ち砕かれるシチュエーションといえば、おそらく「死」の足音が聞こえるときではないかと思う。

その音といえば、例えば、一歩踏み外すと転落する急傾斜地の登山の中であったり、目の前で親しい人がゆっくりと息を引き取るのを目の当たりにしたときであったり、不意の事故で自身の腕がなくなったりしたときであったり、そういったシチュエーションで聞こえてくる。
その瞬間がおとずれるのは、じわじわかもしれないし、2秒後かもしれない。
「死」の距離感は常に計測不能である。

「死」は、それまでの全ての「当たり前」を翻し、全てのデキアタを無効化する。

あえて「当たり前」というワードを使わせてもらえば、人の致死率100%は、当たり前である。
死なない人はいない。
先ほど「じわじわかもしれないし、2秒後かもしれない」と書いたが、じわじわと「死」が迫っているのは確実である。
「生」の裏には、常に「死」がくっついていて決して剥がれることはない。

息子の乳児期、夜中寝ているときに息子が息をしているかどうか、心配になり、確認することがしばしばあった。
生まれたての生命体。
突然死する可能性の高い命。
その胸部の微弱な浮き沈みを凝視していたのは、本能的に常に「死」と隣り合わせと思っていたからかもしれない。
そこには「当たり前」など存在していなかった。

そんなことを考えていると、ふと、息子の記録を撮りためたムービーをきちんと映像としてディスクに残したいと思い始めた。
(ディスク作成のソフトをポチる)

あのときの一つ一つの喜びを再起動させるアイテムを作成する。
そうやってときどきデキアタ化されていなかった頃の「純粋な喜び」を思い出し、常に「当たり前」と向き合うようにする。デキアタを急く社会と適切な距離を捉えながら、丁寧に生活を送る。

息子が初めて歩けるようになったときの、二足歩行の喜びの何たることや。どこまでも自分の足で歩いて行くことができる。歩いていけば、景色が変わっていく。ごく当たり前だけど、めちゃくちゃすごいことだと思った。
そこから私は、なるべくエスカレーターを使わず、階段を上るようになった。

きっとこれからもそういうシーンに出会うだろう。
その時々の当たり前(デキアタ化しそうな現象)と向き合うことができる感度を高め、そういうことをずっと忘れずにいたい。

(ビデオができたら今年の息子の誕生日に上映会をしたい)


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