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お中元~不条理の詰め合わせ~

NODA・MAP 第26回公演『兎、波を走る』を観てきた。

NODA・MAPの公演を観るのは、今回で4回目。(NODA・MAPとの出会いについては、以前の記事『村人C』をご参考いただきたい。)

(※下記、内容に触れる箇所があるので、ネタバレご注意下さい)



感想は、タイトルの通り。
内容は様々な文学作品がモチーフとなっていると思われるが、そもそも私がロシア文学やドイツ文学(というか文学全般)に無知なため、色々張り巡らされた伏線も読み取れず、話の全容を把握できなかった…。故に「説明できない」というのが正直なところ。
善かった・悪かったとか、そういう次元ではないような、「分からないことが分からない」みたいな、不条理の詰め合わせ。終盤に進むにつれ、そういう話だったのか!というのは見えてきたけど、もはやその出来事(歴史的問題)が不条理そのもの。
分かりやすい感想として、高橋一生がカッコよかったとか、多部未華子が可愛かったとか、それはそれで間違いないが、私がNODA・MAPを観に行くときは、気持ち的にはいつも「頭を殴られに」行く姿勢だ。故に、役者はその「鈍器のようなもの」の先端部の存在と捉えている。そして言うまでもなく、それは凄まじく人間的で美しいフォルムで、オペラグラス越しのそのディテール(表情)に至るまでパーフェクトで素晴らしかった。

作品のストーリーを解剖し、文学や歴史等と照らし合わせながら、野田氏の技法や伝えたかったメッセージへ言及する感想(論文?)については、きっと博学で文才のある方々が書き記していると思うので、ここでは、何の文学知識もない私が今作品に触れて実際に感じたことを記すことにしたい。


 内容は全く異なるが、先月観たばかりの宮崎駿最新作『君たちはどう生きるか』の鑑賞後の「説明できない感」が今回の公演と似ている気がした。幻の世界と現実の世界が入り乱れ、シーンが目まぐるしく移り変わる。ちょっとでもトイレ等で離席してしまうと次に着席したときには、完全に置いてけぼりの時空迷子になる。両作品ともシーンごとの断片的な内容はなんとなくわかるが、トリミングされたそれらが幾重にも貼り合わさり、全体として一つの巨大なコラージュ作品になっているように思える。
NODA MAPならぬ、Google Mapの画面をピンチインアウトしながら地球儀レベルのスケールで作品を観たとき、「君たちはどう見えるか」(なんだそれ)。
それはおそらく、まるで美術館の抽象アートのように、観る人のもつ感性によって受け止め方が異なるのかもしれない。それが賛否両論を生む。

別の言い方をすると、観る人の器量を試されているようにも思える。
時間とお金を掛けたのに
「私の期待していたような作品ではなかった!」
「私の好みではなかった!」
など…。
個人の期待や趣向が、妄想を起こし、その思い通りにいかないことが、不条理を生む。
私には両作品とも、体験したことがない宇宙空間のような美しい世界に思えた。ストーリーにまとわりつく不条理も含めて。


 不条理といえば、私が大学の卒論で取り扱った「シュルレアリスム(超現実主義)」のことを思い出す。今作品の感想を語るには、私には唯一このアイテムしか持ち合わせていないのだが、共鳴して光るシーンは随所にあった。以下は、シュルレアリスムを軸とした感想を記したい。

 大学3年の夏、深夜に放映されていた『アリス』という映画をたまたま観て、度肝を抜かれ、これを機にまたたく間にシュルレアリスムの世界に惹き込まれた記憶がある。この映画の作家・監督がシュルレアリスムの芸術家であるヤン・シュヴァンクマイエルだった。原作ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のお話自体もそもそもシュールな内容ではあるが、今回の演劇はまさにそんなアリスの世界がモチーフになっていたため、シュルレアリスムとは切っても切り離せない関係だと思っていた。

ヤン・シュヴァンクマイエル『アリス』に衝撃を受けて、当時描いた絵
(2003年、水彩・コラージュ)

そんな劇中には、作家(野田秀樹)の手が勝手に動き始めると「自動書記だ!」というワードも出てくる。無意識にテキストを走らせる「自動書記」は、夢や人の深層心理(無意識)を探求したシュルレアリスムと非常に馴染み深いワードだ。

また、シュルレアリスト画家の一人、サルバドール・ダリの技法として一つのカタチから複数のイメージが浮かび上がる「ダブル・イメージ」というものがある。劇中では、一つの言葉から複数のイメージが浮かび上がるという技法(言葉遊び?駄洒落?)がとても多く巧みに使われ、劇中の世界をユニークかつパラレルに彩ると同時に、推理モノのように物語の核心に迫っていく効果があった。
そして「38℃」というダブル・イメージで、隠れていた歴史の不条理が急にあばかれていった。

 劇中後半にかけては、作家AI(人工知能:初音アイ)に人(作家)の創った物語が徐々に乗っ取られ、不安・焦燥感を駆り立てられるシーンがあったが、私が大学時代にシュルレアリスムを調べ始めた頃、自分の生きている今の世界のことを色々考えたことがあり、その時感じた不安・焦燥感とよく似たものを感じた。シュルレアリスムを理解するためには、自分の「既成概念」や「当たり前」を解剖することが必要不可欠だった。

空飛ぶ飛行機も車も、携帯電話も、毎日の食料も、全て過去の世界の人(偉人・文明・戦争・科学等)が創った歴史の産物で、私はそういったものの上で生かされているのではないか。
私が生まれる前からこの世界は続いていて、今生きている「私」という存在は、すべてその過去の世界から生まれ、つくられたものであり、私という「オリジナル」なんてものは何一つ存在しないのではないか。

2003年頃の私の覚書

そんなことを考えては、急に虚しくなり、自分が消えてしまいそうな、不安・焦燥感に襲われることが何度かあった。社会的役割を剝ぎ取られたとき、私が私たるものは一体何なんだろうか。AIの社会的台頭とは、そういったものを突き付けられることとイコールだと考えている。

シュルレアリストたちが創る作品は、おおよそ意図的に、観る人の不安や焦燥感(違和感や驚き等)を駆り立てる。それこそがシュルレアリストの狙いであり、観る人の「当たり前」や「既成概念」を揺るがすことになる(大体の作品は不条理に見える)。揺らいだその先にあるのは、夢でも、幻想でもない、実は「現実」なのだ。

例えば、ルネ・マグリットのこの作品。

『 観念  Abstract Idea 』/ルネ・マグリット
(1966年 油彩、カンヴァス)

この作品に描かれた人物は、特徴のない既成の服を着せられ、顔を消されることによって、人間でありながら人間そのものから引き離されている。同じように宙に浮かぶリンゴもその個性を消されている。無性格にされた二つの物体は、一見互いに脈絡をもたずに、絵のなかでこそ可能な出会いを果たす。シュルレアリスムの、そしてマグリットの手法の典型である「日常の中ではあり得ない出会い」。そこには、通常の意識を突き抜け、驚きの入り混ざった超現実的な感覚が引き起こされる。

東京富士美術館HP解説より

人間の頭とリンゴ。
あるべきはずの環境に、あるべきモノがない環境を意図的に創り出す。
それにより違和感や驚きが生まれると同時に、そのモノの現実(存在感)がより強調される。


ここで改めて…

「シュルレアリスム」とは、現実主義を意味する「レアリスム」に、「超」を意味するフランス語の接頭辞「シュル」がついたものです。ここでいう「シュル」とは、「強度の」とか「過剰な」というようなニュアンスがあります。
「超える」とはちょっとニュアンスが異なっているのでご注意ください。「超える」というよりも、現実をさらに突き詰めて濃くしていったものが「シュルレアリスム」です。訳すならば「強度な現実」「上位の現実」などということになります。

シュルレアリスムって?初心者でも大丈夫。作品の楽しみ方をやさしく解説!
《やさしいアートの話 2》 | this is media


 やや話が作品から飛んでしまったが、このシュルレアリスムの根底にある「現実」の強調が、不条理が続く劇中で強く感じ取れた。
特に、セリフはうろ覚えだが、終盤あたりに妄想と現実を行き来するアリスの母(松たか子)が「今ここに生きていることが現実!」みたいなことを言うのだが、まさしくそこに尽きると私は思った。
不条理で埋め尽くされているからこそ、「現実」が際立ち浮き彫りになるというのは、まさしくシュルレアリスムだ。

行き着く先というのは、
結局「今を生きるしかない」というところである。
生きている世界が例え、幻であろうと、現(うつつ)であろうと、デジタルであろうと、今そこで生きていることに違いはない。
それは間違いなく「現実」だと。
一貫してそういう強靭さをアリスの母から感じた。

ちなみに、シュルレレアリスムが生まれた背景には、第一次世界大戦がある。なぜ彼らが夢や無意識を探求し、「現実」や「生」を強調させる必要があったのか、なんとなく分かる気がする。もう、そうするしかなかったのだ、きっと。


 history(歴史)は、his story(誰かの物語)と聞いたことがある。
つまりそれは、「私が生まれる前から続いているこの世界(歴史)」であり、誰かが敷いたレールであり、あらゆるシステムだということ。生まれた瞬間、いや生前から、既にhis story(誰かの物語)の中に、その支配下で私たちは生かされている。そしてこれからの時代、その his の傍らに AI がいるのかもしれない。
そして、その支配から脱するには、そのシステムを理解し、その支配下でうまく立ち回って生きていかなければならない。
脱兎(高橋一生)のように。
そうしなければ、死んでしまう。
それは自然界の動物や魚類でも同じこと。
宇宙の大原則として生き物はまず生きようとする。
支配下・不条理で生きるために、
とりあえず、もう、そうするしかないのだ。
妄想するしかないのだ!





余談というか、全く関係ないのだが、『兎、波を走る』をイメージすると、このシーンを思い浮かべてしまうのは私だけだろうか…。

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