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√271

大阪の梅田に『ROUTE(ルート)271』というお気に入りのパン屋がある。

そこの「タイ風焼きそばパン」が美味すぎてからに、無性に食べたくなる。
モチッとしたパンにナンプラーが香るピリ辛、ポリューミーな焼きそばパン。

ROUTE271のタイ風焼きそばパン


皆そう感じているのか、いつ足を運んでも長者の列をなしており、少なくとも30分は並ぶことを覚悟して購入を臨む。
梅田に用事があるときは、そのパン屋を経由するプランを立案する。
もはや用事がメインなのか、パンがメインなのか私自身にも分からないときがある。とりあえず梅田に行くときは、プランのROUTEがタイ風プランになるのだ。

しかし…

2023年2月28日、突然の閉店。
あまりにも突然の閉店だった。

この世の真理は理解しているつもりだったが、以前の記事『』でも書いた「明日が来る保証などどこにもない」ことを真っ向から叩きつけられたような気持ちで、閉店告知の前でしばらく固まってしまった。

その後も立て続けに、いつも聴いているバンドのベースが緊急脱退したり、ライフラインともいえる近所の大阪王将が潰れたり…、何でもないかもしれないが、地味に私のお気に入りが突如消えていくことが近年増えてきた。

どこからともなく集まった
私の生活の一部


今の形になるほどに
アイスキャンディー クマのぬいぐるみ
大事にするのが大変に 
大変になるのは なぜだろう

『春』
『タオルケットは穏やかな』
カネコアヤノより


生きとし生けるものには、遅かれ早かれ、必ず終わりがくる。
故に、人がいとなむものにも、必ず終わりが来る。
手入れされない建物は朽ちて廃墟となる。
近所の大阪王将の、コンクリート躯体が剥き出しにされた解体現場は、まるで火葬炉から出てきた骨のよう。

近所の大阪王将

移ろいゆく今、その瞬間、瞬間、を注視し、その時を噛みしめて味わって生きる。
それは「タイ風焼きそばパン」の美味しさが私の味覚を通して教えてくれたことだった。


ときに、大きな喪失感は自分の将来を変えることがある。
例えば、ある少年があの時助けることができなかったおじいちゃんを助けたいが一心で、タイムマシーンを作ったり、医者になったり、といったやつ。はたまたは、「リベンジ」という逆のベクトルで現代医療のシステムを破壊して新しいシステムを構築しようと模索するとか…。

そんな風に、そのうち私は「タイ風焼きそばパン」を作ろうと思い始めるだろう。
あの味覚の記憶を頼りに。

ROUTE271風タイ風焼きそばパン

作った。
到底、本家の味には及ばないが、これはこれで美味しく、家族からはとても好評だった。だから引き続き作ってみようと思う。

そもそも「コッペパンにタイ風焼きそばを挟む」という解を編み出したこと。そのアイデアの背景には独自の「美味しい方程式」が存在していたのではないだろうか。不慣れな素人が作っても、この黄金比的な組み合わせには、ある程度の「美味い」が担保されている。DIYでそんなことがおぼろげに見えてきた。

人を惹きつける美味しい方程式。
それは食べた人皆が幸せになる、美しい、愛の方程式。
数学に長けた職場の同僚は「この世のあらゆるものは√271で説明できるんですよ」と言う。私にはよく分からないけど。

大好きなパン屋もバンドもいつ潰れるか分からない。身近な人も然り。そしてそれはいつも決まって「突然」で、誰かにとってはショッキングで、誰かにとっては日常生活に何も支障のない出来事だったりする。ちなみに「突然」なのは、完全に受け手の主観ゆえに、当人にとっては知ったこっちゃない(当人にとって突然の事もあるが)。
人はつい慣性的になりがちで、有り難さが連続すると、永遠という幻想に安住を求めんとしてしまうが

生きてるうちに 良かった 見れて

『こんな日に限って』
カネコアヤノ

と思えたら、
それでいいのではないだろうか。
それ以上もそれ以下もない。
その刹那。
「何か突然大切なものを失う」という感覚が起こるのは、実はそれを本能的に知っているからではないかと思ったりもする。
生まれて死ぬ、ということを。

そのときが来るまで、刹那の美味しさや美しさに純粋に感動できる人でいたい。

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