見出し画像

オレはnoteに書いた自分の文を読んで、いつも面白いなぁと思う。文章のスキルは別として、オレはオレの文が好きだ。言語隠蔽

自分で言うのも何だけど、オレはオレの文章が好きだ。

上手い文章を書こうとも思わないし、人受けするするような内容を書こうとも思わないし、ましてや人様の役に立つようなものを書こうとも思わない。
書きたいと思ったことを思いついたままに、好き勝手に書いているだけだ。オレだけのために。

そんな文章にオレは満足している。
だからたいして添削もしていない。多少はするが頭が疲れるからものすごく中途半端にしている。「まいっか言っとけ♪」ってノリだ。

そんなこんなで散文を毎日500〜1000文字くらい書いている。いつも何かしら書きたいことがあるから不思議だ。自分でも信じられないでいる。よく毎日書くことを思いつくなぁと我ながら感心する。

とはいえ、自分が書いているいう実感もない。もちろんチャネリングなんて能力があるわけではないし、多重人格で別人格が書いているわけでもない。宇宙人に乗っとられて書かされているわけでもない。なんか知らないけれど書けている。質はともかくとしてw

そういえばオレは抽象的なことを抽象的なままに書くことが多いように思う。
違う言い方をするなら、よくわからないことをよくわからないままに書く。

まさにこの文章がそれなんだけど、なにかの言葉を当てはめるとこぼれ落ちてしまうものがあって、それを怖れているのかもしれない。
文章を書くときは基本的に他者を想定している。

頭の中のものを言葉で具体的に表現することは良いところもあるが、それは諸刃の剣でもある。

あることを言葉にするとこぼれ落ちてしまうものがあるからだ。しかし、同時にそれ以上のことを相手が受け取ることもある。
結局は、具体的な言葉にしようが、抽象的な言葉にしようが、それを受け取る相手次第なところがある。

それと同時に自分自身への影響もある。

最近知った言葉で「言語隠蔽」というものがある。

言語隠蔽効果(げんごいんぺいこうか、英語: verbal overshadowing)は、顔などの情報を言語化して説明するとその記憶の精度が損なわれる現象。

言語隠蔽効果は顔以外にも、非言語的知識と知覚的知識に依存するさまざまな種類の認知・記憶にもおよぶ

https://ja.wikipedia.org/wiki/言語隠蔽効果

これは自分の記憶に関することなんだけど、下手に言葉に置き換えると、記憶が不正確になってしまうというのだ。それは歪んだ偏った記憶といえる。思い込み、決めつけの発生でもある。
抽象的な曖昧な状態にしておくことには、いろんな利点がある。

理想は、具体と抽象をバランスよく、できれば同時に両方を使えるといいなぁと思う今日この頃だ。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?