自己責任論のウソ!世界に責任なんて本当は存在していない!

オレはこの世に責任ってものは厳密にいうと存在しないと思っている。

自然界を見てほしい。動物、植物を。彼らはあいつの責任で食べ物にありつけなかったとか、自分の努力が足りないせい(責任)で太陽の光が当たらない、などと思わないだろう。

自責も他責もない。
事実、現実、結果があるだけだ。

たとえばネコが縄張り争いをして負けて痛い目にあったとして、
自分が痛い目にあってのは、自分が弱いからだ、自分の責任だ。自分が悪い。とはならないと思う。
逆に、あいつのせいだ、あいつのせいで自分は痛い目にあった。この痛みはあいつの責任だ。あいつが悪い。とも思はないだろう。

あいつに縄張り争いで痛い目にあった。あいつに負けた。あいつは自分より強い。あいつにはもう逆らわない、となるだけだ。

実際に我が家のネコのぱんにゃは、縄張り争いでサバトラ柄のネコにボコボコに負けて以来、そいつに対しては威嚇すらしなくなった。それまでは何度も威嚇しあったり、喧嘩をして勝負つかずで追いかけ合いをしていたんだけど、その日を境にまったく関係性が変わってしまったのだ。

そのときうちのネコのぱんにゃは、誰の責任にすることもなく、縄張り争いに完敗したという事実を受け入れて、後腐れなく過ごしているように見える。

この世界にはただ、事実、現実、結果があるだけ。

責任というのは誰がやったのか、誰がはじめたのかという起点が必要になる。そしてその起点者に責任があると考える。

わたしがはじめたから、わたしの責任だ。
あいつがやったから、あいつの責任だ。

はたしてモノゴトにはじまりなんてものはあるのだろうか?

はじまりにはきっかけがあり、そのきっかけにもきっかけがある。そしてその根源のきっかけにたどり着くことはない。

人間はそれでは気持ち悪いし困るからはじまりを設けようとする。
そしてはじまりには責任がついてくる。

はじまりがないと気持ち悪いからはじまりをつくり、その結果に責任というものが生まれたのか、
責任者がいないと気持ち悪いから嘘っぱちでもいいからはじまりをつくり、責任者をでっち上げたのか、オレには知る由もない。

オレのこの文章を書くきっかけにも厳密にはあるとは思えない。オレがこの文章を書いているのは自己表現をしたいというきっかけの欲求があり、それがいつ生まれて、なぜ文章なのかもわからない。そしてなぜこのタイミングで、こんなことを書いているのかも、これがオレにとっての自己表現になるのかもわからない。ただそうなっているだけだ。

もしオレの文章を読んで不快な気分になった人がいたら、それはオレの責任でも、その人の責任でもなく、ただ不快な気分になったというだけだ。

誰にもどうすることもできない今があるだけ。

その上でオレは「はじまりのない世界」をどう生きていいくのだろうか。

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