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すると決めているので雨が降っても朝散歩。どうするか考えると迷う。迷うとだいたいしない。だから考える余地を与えない。

雨音が聞こえる。雨が降っている。しっかりとした雨だ。しかし土砂降りではない。土砂降りでないのなら朝散歩をすると決めているから、迷わずに外に出る。

いつもと違うのは化繊のハーフパンツに履き替えることと、濡れてもすぐに乾くシューズを履くこと。小雨なら傘を差さずにスロージョギングだが、傘があるときは早足散歩になることぐらいだ。

「雨の日は嫌だなぁ」という気持ちはまったく起こらない。雨の日には雨に日にしか出会えない風景がある。肌感覚、音、景色、匂い。そこから出てくる思考や感情、衝動。

傘を差すと目線は足元にいきがちになる。足元を見ていると頭は思考で溢れ出し、透明のビニール傘の範囲がオレのテリトリーで密室だ。油断をすると外にいても引きこもり状態になる。

顔を上げ意識を地球に向ける。山にかかるガス、傘に当たる雨の音、どこにいるのかわからないが雨の中でも確かに存在している鳥の声、濡れた足の指の感覚。

すべてが贈り物だと思える。

雨の日でも朝散歩をしたから受け取れるものがある。

思考はときに迷いを生み、迷えば迷うほど脳は疲れ、判断を誤る。
人間は習性として目の前の快適さを選択し、目の前の不快さを避ける。だから考えれば習性上必然的に快へと流れる。ヘドニアというやつだ。

不快を避けることも必要だが、いつもそればかりだと同じ景色ばかりになり、雨に濡れた足指の感覚を味わうことはなくなる。

思考は自分ではない。ただの道具だ。
うまく思考と付き合わないと、気づいたら思考に自分が使われていたということになりかねない。

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