人生に何も求めない。人生は死ぬまでの暇つぶしだ。

こと投稿はYouTubeの台本をそのままアップしたものです。

「人生は死ぬまでの暇つぶしである」といったのは、数学者で、哲学者のパスカルの言葉だといわれています。

死ぬと無になるという考えを採用するオレには、この言葉に“確かに”と、すごく納得しています。

臨死体験や輪廻の話については、人生をワクワクさせるのでエンタメ程度に捉えています。否定はしません。オレにはわからないので。

すべての人は必ず死にます。死ねば無になります。生きてる間にどんなにお金持ちになろうが、多くの人の記憶に残るようなことをしようが、死んだ本人にとっては無になってしまいます。

だから、オレたちは死を経験できません。死ぬ瞬間まで生きているからです。
すべての人類はみんな死んでいるにも関わらず、死を知らないのです。

もちろん、他人の死に出くわすことはありますが、自らが体験したわけではありません。

そして、自分の死は自分にとって過去になりません。存在しないからです。
ほんと死っておもしろい。

さて、すべての人はみんな死ぬし、人類はたぶん滅びるだろうし、地球も太陽の寿命と共に消えて無くなるし、宇宙にも最後はあるし、そう考えると人生は暇つぶしどころではなくて、オレには「宇宙もただの暇つぶし」と考えても差し支えないように思えてきます。

宇宙が存在していることも、人生もしょせんは暇つぶしだ。しょせんそんなもんだと考えるとオレはすごく楽になれるます。

この考えに賛同してくれる人は多いのではないかと思います。

「人生は死ぬまでの暇つぶしである」を生きる

オレは「人生は死ぬまでの暇つぶしである」という考え方を採用して生きたいと考えました。
すると幾つかの考えるべきことが出てきました。

死については、すでに述べたことでオッケーとします。

人生については、とりあえず死んでいない状態としておきましょう。ここでは詳しく考えないことにします。

ここで一番考えたいことは2つあって、ひとつ目は暇つぶしとは何か?
二つ目は、暇つぶしをやるとしたら具体的にどうするのか?何をするのか?
ってことです。

暇つぶしとは


◆Wikipediaでは
暇潰し(ひまつぶし)とは、時間的余裕が生じた際などに、本来要求されていない行為・作業などを実施することによって時間を消費する代替行為の一つ[1]。

◆デジタル大辞泉では
ひま‐つぶし【暇潰し】
読み方:ひまつぶし
1 ひまな時間を過ごす手段。「—に将棋をさす」
2 時間をむだに過ごすこと。「とんだ—をしてしまった」

と、あります。
人生に何の意味もないと考えるオレが「暇つぶし」を言い換えると
「時間をやり過ごすこと」かなぁと勝手に考えてます。

では、なにを持って暇つぶしをしていると言えるのでしょうか?
これは、さっきオレがいったことと被るのですが、死ぬまでの暇つぶしと考えると、すごく簡単で、時間が経てばいいのです。
時間が経つとは死へ近づいているとイコールだからです。

そして自明なことですが、時間はなにもしなくても、息を止めていても、じっとして1ミリも動かなくても、寝ていても、地球の回転と逆向きに全力で走っても、過ぎ去っていきます。経過していきます。

なので、自動的にオレたちは人生の暇つぶしを否応なしにしているのです!

暇つぶしをどうやってするのか?

考えるべきは、暇つぶしの内容になってきます。

といっても、本当は死んだら無になるので、暇つぶしの内容が何であっても結局はどうでもいいのですが、せっかくなので考えてみたいと思います。暇つぶしでw

よく「分けるとわかる」というので、暇つぶしを分けていきたいと思います。

ここまでも、これからもオレの思いつきで話していきます。だから自分だったらこう思うなとかツッコミながら聞いてもらえればいいかなと思います。
もしなにか、あればコメントをもらえるとうれしいです。

◆暇つぶし

→自分軸
→他人軸

◆自分軸
→自分を大切にする、自分ファースト

→暇つぶしを真剣にする
常識にとらわれないところから行動する、興味関心、好奇心、楽しい、活動的、能動的、積極的、わくわく

→暇つぶしを適当にする
怠惰、かなり非常識、のんびり、マイペース、したくないことはしない、積極的ではないが言いなりでもない、頑張らない

◆他人軸
→自分は二の次、もしくは自分がない、自分を知らない
→社会的なことに縛られたところから行動する、常識にとらわれている、ルール、マナー、一般的に良いこと、物差しが自分でない、嫌々している、頑張る

自分軸で人生の暇つぶしをしようが、他人軸で暇つぶしをしようが、真剣であろうと、適当であろうと、暇つぶしに正解はないと考えています。

それはそれが何であれ時間は勝手に過ぎ去ってくれるからです。そして死んだら無になるからです。好みの問題だと思っています。

ただ、世間の常識では前者の真剣に暇つぶしをすることが良いことだと考えている人がマジョリティだと思います。

そして多くの人は一生懸命に真面目にやりたくもないことをして死ぬまでの暇つぶしをやっていると思います。

そしてそれがいいことだと世間ではいわれています。

確かに何かに打ち込み、一生懸命に頑張って暇つぶしをしている人をみると、応援したくなるし、感動します。

逆に、働かない人、ぐうたらと何をやるわけでもなく日々を送って暇つぶしをしている人は、ダメ人間だ、負け犬だとレッテルを貼られます。

そして、貼られた方も自分はダメ人間だと信じ込み苦しみを使って暇つぶしをしています。オレみたいな人間です。自ら望んでそうなったつもりはないんだけどねw

苦しみも立派な暇つぶし行為なのです。苦しんでいる間も死に向かって時間が経っているからデス。

何をやってもやらなくても暇つぶしです。

そして最後は死んで終わりです。

なんて最高なんだとオレは思ってしまいます。

死ぬ瞬間まで、人はいろんな人生を歩んでいきますが、死んだ瞬間にたぶんひとはみな、どんな人生を歩んできたとしても、同じ無に帰るのです。

無に帰るというか、なくなる。ゼロですらない無。

死んだらあの世にはお金を持っていけない、っていうけど、死んだら無になるんだから、お金どころか、思い出も経験も、生前の徳も悪事も、何もかも無くなるとオレは考えています。

物理学の世界では情報はなくならないと考えられているみたいなので、死んでもその人のあらゆる情報は宇宙のどこかに保管されているのかもしれないけど、それはもうオレではないと思います。

さてさて、こういう抽象的なことを考えると終わりがないので、そろそろ終わろうと思います。

ではでは、たもさんでした。

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