『魂の光』解説年間講座 第5回レポート(前編)
今日は『魂の光』解説年間講座の第5回のレポート前編です。
今回から『ヨーガ・スートラ』第二の書に入ります。
クリヤーヨーガ
『魂の光』に下記のようなことが書かれています。
熱誠家が『第一の書』を読み終えたときに次のように言うのは当然である。「何と望ましく、何と正しいことであろうか。しかし、どのようにすれば成し遂げることができるのか。私は何をしなければならないのか。どこから始めればよいのか」と。
まさにそのように思いましたわさ。達成すべき目的はわかったのですが、ゴールが果てしなく遠い気がして走り出す気が起きないという感じです。
しかし、この第二の書では、サマーディに入る前段階としての基礎的な準備や実践について語られているそうです。
部屋に籠って一人で瞑想の練習をいきなり始めるのではなく、日々家族や友人と関係しあいながら、何気ない日常の行いの中で心を正していくことから始めればよいようです。毎日の生き方で実践していくこの方法をクリヤーヨガと言います。クリヤーとはカルマ(行い)のことです。
クリヤーヨガ3つのポイント
何気ない日常の行いをYOGAにするポイントは3つあります。
①タパス
②スヴァディアーヤ
③イーシュヴァラ・プラニダーナ
あいかわらずサンスクリット語が頭に入ってきませんが、、①タパスは「苦行」とか「禁欲」と訳されますが、ここでは「焼くこと」「熱を作り出すこと」を意味しているそうです。
焼くとどんなものでも純化される。焼けば焼くほど純度が増す。この燃焼のプロセスを心の不純物に対して働かせていくことがタパスです。他者から与えられた苦しみを、投げ返さずに受け止めて燃やしてしまえばよいのだそうです。
「燃やしてしまえばよい」ってそんな簡単にはできないと思いますが、アンガーマネジメントみたいなものですかね。
タパスを続けていくと、苦痛を受けたとしても、「不純物を焼く機会を与えてくれてありがとう。」とさえ思うようになる、とのこと。苦を楽に変えられるとしたらすごいことですよね。
②のスヴァディアーヤは「研究」という意味で、「真の自己に関する研究」のことです。
一般的な解釈では実際にやるべきこととして、自分の心を高められる聖典(『聖書』『ギータ―』『コーラン』『ヨーガ・スートラ』など)を繰り返し読むこと、だと言われています。
『聖書』は何千年ものあいだ数知れぬ人々が毎日読み続けているものですが、何百回読んでも読みつくせるものではないものだそうです。読むたびに新しい光に照らし出されるので、こうした書物を読むたびに、より深く知ろうとして自分自身を高めていくことができるとのこと。
でも、その聖典を完全に理解するのは、われわれ自身が預言者となったときでしかない、と書かれています。
思索のみによって心を超えた<もの>を理解した人は誰もいなく、心を超えたとき、それは初めて理解される。そこが、ヨーガと他のほとんどの心理学的アプローチとの違いである、とのことです。
スヴァディアーヤの『魂の光』の解釈としては、「この宇宙の神羅万象全体を、<神が書いた聖典>とみなして、あらゆる存在や現象の中に、<神の顕われ>を見出すこと」であると解説されています。
日本人はあらゆるものに神が宿っているという感覚を持ち合わせているので秘教的なスヴァディアーヤの実践はやりやすいのかもしれませんね。
③のイーシュヴァラ・プラニダーナは、一般的には「至高の<存在>に身をゆだねること」だとされています。
至高の存在である<神>、あるいは神の顕れである人類に行為の果実をささげれば良いとのこと。
つまり、何をするときでも、いつでも、自分のためではなく、人類のためと思って行う、献身のヨーガです。
いくら徳行・善行であっても、エゴイスティックな気持ちで行えばそれは自分を縛ることになるが、自分はただの受託者で所有者ではないと思えれば、与えたものを失うことはないそうです。
『魂の光』では、イーシュヴァラを「魂」と解釈しており、どんな時でも常に魂とのつながりを維持し、パーソナリティを統御して、生ける魂として行動することがイーシュヴァラ・プラニダーナだとしています。
どうでしょう。①②③、完璧に行うことはできなくとも、そのような心持ちで日々を過ごすことぐらいからは始められそうですよね。
5つのクレーシャ(苦悩)の種
人間の煩悩は108つあるなどと言われていますが、『ヨーガ・スートラ』では、苦しみ、悲しみ、悩みを生む苦悩の種を下記の5つに分類しています。
①アヴィッディヤー(無知。自分自身の真実を知らないこと)
②アミスター(自分なりのこだわり、自我、自意識)
③ラーガ(欲望、執着、偏愛)
④ドヴェーシャ(嫌悪、憎しみ)
⑤アビニヴェーシャハ(失うことの恐れ、死への恐怖)
①②は正しい知識で解決、③④⑤はヨガの練習、態度、瞑想で解決する、という解釈もあるようですが、私的にはこの中でも特に対処するのが難しいのが③ではないかと思います。欲望や執着を手放すのは難しいことですよね。
ヒンドゥー教の聖典のひとつである『バガヴァッド・ギータ―』の中では、身体の苦行のうちのひとつの「ブラフマチャーリ(独身生活)」について、これは”統御”の意味であって、性欲や性力を抑圧するという意味ではない、と言っています。
心を、瞑想・マントラの誦唱・祈り・聖典の研究・純粋で無性の<自己>の観想によって高尚な想念で満たしておくことができるならば、心の転進によって性的欲望は非活性化されるとのこと。
秘教的に説明すると、仙骨センターのエネルギーを喉センターに上昇させ、精神的な創造性に変換=変性して解放することになります。
くだらない話になりますが、ちょっと前にテレビで、郷ひろみに対してインタビュアーが「いつまでもお若いですけど、性欲ってまだあるんですか(←こんな直接的な言い方じゃなかったと思うけど)」と聞いていて、「性欲なんて水をがぶ飲みすれば消えちゃうよ。ハハッ!」って答えてて、郷ひろみスゲー!、て思ったのを思い出しました。なんかあの人ってマイナスなエネルギーを全部プラスに変えているようなパワーを感じますよね。
欲望や執着は、性欲のような物質的な対象への欲求だけでなく、情緒や知的追及によって起こるものごとに対する執着も含まれます。家族への愛やキリストに対する信奉者の崇拝も多かれ少なかれ執着となります。
自分自身に向き合い続けていると、ひとつのリアリティ(自身である霊的リアリティ)だけが残り、欲求は内に向けられます。そうすると欲求が外に向けられることはなくなり、快楽や苦痛に満ちた脇道へ誘惑するものは何もなくなるのだそうです。
『ヨーガ・スートラ』第二の書、いろいろ具体策が出てきて面白いですね。日々の暮らしの中で精進していくというのは、ヨガになじみのない人にも受け入れやすいのではないでしょうか。
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