大きく手を振って

【シークエンス】

 

「喉痛い。風邪かな」と朝のメールが入る。
〈おはよう〉というタイトルの定期便だ。

 僕は通勤電車のなかで、毎日、千香から届くメールを読んで、その日の彼女の朝の情景を思い描く。

「今日は富士山見えなかったよ」
「駅の階段でつまずいて膝打った」
「電車遅れてる!遅刻しそう」

 千香とは出会ってまだふた月も経たない。頻繁に会うようになってからは3週間しか過ぎていない。

 だけど、幼い頃からの彼女を僕は知っている――。

 保育園のとき勇気くんのことが好きで、小学校、中学校と友達にうまく馴染めず、15歳のときにできた彼が嫉妬深く、高校時代のほとんどをクラスの男子といっさい話をしなかった。

 数多くの恋をした。
 恋をすると一途で、“愛されたい”という気持ちに怯えながら日々を過ごした。
 でも、それを素直に言葉にすることはできなかった。“もし、受け入れてもらえなかったら”と思うと、背筋が凍りつくような不安に襲われた。

 仕事を始めて、自分に自信を持った。
 自分が社会の役に立っていることを実感した。
 そして、自分の価値を高めるために努力をした。それはもう命懸けの努力だ。
 その甲斐あって、彼女はこの社会のなかで自分だけの立ち位置を手に入れた。

――そんな千香の半生を、僕はわずかに3週間で知った。

 彼女には好きな人がいて、また、“愛されたいという怯え”を抱えながら日々を送っている。

 僕もまた好きな人がいた。だから、彼女に恋をしているわけではない。もともと趣味も生き方も正反対で、互いにベクトルが重ならないタイプなのだ。でも、そんな外側に張りついただけのものに初めから意味はなかった。僕らはこの3週間に何十回もメールを交換し、わずかな時間があれば、顔を会わせた。

 恋人でもないのに、なぜ?と、他人に話せば訝しがられることはわかっている。自分でもよくわからないのだ。けれど、恋人とは別に千香も僕も互いを必要としたし、そして、彼女のしあわせを心から望んでいる僕の気持ちに嘘はなかった。

 そんな、2005年の早春。

 あれから12年が経ち、僕らは今日、再会する。

 千香も僕もそれぞれ結婚をして家庭を持った。
 たぶん、彼女はもう、愛に怯えてはいないだろう。

 あの頃。よく待ち合わせた東急本店の前で、僕は千香を待っている。
 渋谷駅から人混みのなかを彼女が歩いてくる。遠くからでも、人混みのなかでも、僕は彼女を見つけることができる。

 まずは、大きく手を振ろう。
 千香の姿を見つけ次第、右手を高く上げて、大きく手を振ろう。
 きっと、彼女も僕を見つけて、大きく手を振り返してくるはずだ。

 約束の時間まで、あと5分。

 2017年の早春。

 

tamito

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