僕の右足の悲しみ

【小説】

 

 悲しみの原因はわかっている。

 それは先日実家に帰ったときに裏山へ山菜を取りに行って、ついうっかり悲しみの沼に足を取られてしまったからなんだ。
 悲しみの沼についてはみんなもよく知っているよね。ミヒャエル・エンデが記した通り、一歩足を踏み入れれば悲しい思いに捕らわれてしまい、悲しければ悲しいほどますます沼に沈んでいってしまうんだ。そこから抜け出すためには何か悲しくないことを考えるしかない。
 だから僕はそのとき大好きなダチョウ倶楽部のことを考えたんだ。そう、熱々のおでんや熱湯風呂で押すなよ押すなよドボンってやつさ。そうしたらスポッと足が抜けたんだ。ほんとにいま僕がこうしていられるのもダチョウ倶楽部のお蔭さ。ただね……。

 ただ、その後も右足を中心にどうにも悲しみが疼くんだ。沼から抜け出してきれいに足は洗ったし、爪だって痛いくらいに深くハサミを入れて、沼の泥は完全に取りさったはずなんだ。だけど疼く。僕の右足の悲しみが。
 昼間、仕事をしているときなんかは比較的気にならないのだけど、夕暮れどきに川原の土手を歩くときとか、お酒を飲み過ぎて眠れない夜とか、右足で悲しみが飽和して、それが全身へと広がってくるんだ。もちろんダチョウ倶楽部のことは考えるさ。でも、この悲しみにダチョウ倶楽部の楽しさは慣れてしまったようなんだ。せめても新ネタがあればと切実に願っている。たぶん、その思いの強さでは、僕は日本でいちばんなんじゃないかな。本人たちを除いてね。

 悲しみの種類はいくつかあるけどだいたいが3つに集約される。過去のそして未来の誰かの死、過去のそして未来の僕の失恋、それから過去のそして未来の僕の存在の稀薄さについて。
 いちばんやっかいなのはもちろん3つめの稀薄さだ。死は誰の元にも遅かれ早かれやってくるものだし、しばらくすれば日常に馴染む。失恋は悲しいけど後で良質な肥やしになってくれる。だけど存在の稀薄さだけはどうにもならない。やつは僕自身を否定して、かつての様々な存在の稀薄さ事件の数々を記憶の底から呼び起こしては絶望の淵に叩き落とす。そう、自分が生きている価値がまるでないような気持ちになるんだ。

 だから川原の土手でふいに、僕は右足を切り落としたくなるし、真夜中過ぎのベッドのなか右足を抱えてもんどり打つんだ。
 誰か助けてよ、と言ったところで誰も僕のほんとうの悲しみを理解することなんてできないし、もし「わかるよ」と村上春樹の小説の主人公のように言ってくれた人がいたとしても、それを解決することなんてできやしない。だから黙って悲しみがひいてゆくのをじっと待つか、ダチョウ倶楽部に「新ネタをお願い」と手紙を書き続けるしか術がないんだ。

 ねぇ、きみ。ここまで読んでどう感じたかな。僕が間違っているのか、僕以外のすべてが間違っているのか、それともそもそもの始まりからこの世界が間違っているのか。でもひとつだけ真実はあってね、それは、ダチョウ倶楽部が、いつでも、僕を、楽しい気持ちに、させてくれること。……この話、くどいねw。

 これはメタファーのように取れるかもしれないけど、限りなく真実に近い話なんだ。だからみんなも気をつけて。悲しみの沼には決して近づかないように。

追記、この話は続きません。

 

tamito

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