深海より愛をこめて ②

【小説】

 

「藤沢くん?」

 背後から呼ばれて振り返ると西尾香菜子が立っていた。〈ああ、西尾香菜子だ〉と僕は頭のなかで言葉にし、同時にうれしさがこみ上げ、口角があがってしまうのを必死に抑える。

「何度も呼んだのに、なにぼんやりしてたの?」

「あ、そうなんだ、ごめん。なんかボーっとしてたみたい」

「大丈夫?」

 大きな目をさらに見開いて覗きこむように、西尾香菜子の顔が近づく。彼女は極端に視力が弱いのに授業中以外ではメガネもコンタクトも使わないのだ。僕は一瞬にして心拍数が上昇して顔が火照ってくる。

「顔、赤いよ。熱あるんじゃない?」

 西尾香菜子が右手を僕のおでこにあてる。
 ダメだ、ダメだ、そんなことされたらもっと赤くなってしまうよ。僕はひんやりと冷たい彼女の右手を振り払い「大丈夫だよ」とぶっきらぼうに言う。途端に頬を膨らませ気味にして目を細める彼女。〈ああ、そんな表情も好きなんだ〉と頭のなかで言葉が踊る。

「なに照れてるのよ。私たちのことはみんな知っているんだから、いまさらいいじゃない」

 〈私たちのこと〉とはこの場合、ひと月程前のある日曜日に僕らが港でデートしているところをクラスメイトに目撃され、翌日、学年中にその噂が広まり、散々に冷やかされ、結果としてクラス公認の恋人関係になったことを指している。ちなみに、僕らはその日が初めてのデートで、街から30キロも離れた港まで行ったというのに。

「ねぇ、聞いてるの?」

「ああ、聞いてるよ。西尾は? 今日は絵を描かないの?」

「うん、今日はいいかな、と思って。天気良いし。藤沢くんは?」

「え?」

「え? じゃなくて部活。今日は水曜だから行かないよね」

「あー、行かない…かな、あれ?」

 趣味のレベルのバスケ部は、全国水準のバレー部やバドミントン部に押され、体育館を使用できる日が極端に少ない。そうか、今日は水曜だから行かないか。

「なにかほかに用でもあるの?」

「あ、ああ、ない。用ない。部活も行かない」

「ふーん、なんか変なの」

 西尾香菜子がまた目を見開いて顔を近づける。

「ま、いっか。じゃあ、羊山あたり散歩して、どこかでお茶して帰ろ」

 西尾香菜子の言うとおり、なんだか変だ。頭がボーっとしている。考えごとが多いし、やけに自問自答している。それに前にも同じことがあったような気がする。既視感…。

 

 羊山は小さな街を囲む丘陵の一角で、広域にわたり芝を貼られた公園だ。なぜ羊山かというと街から見たときの形が羊に似ているからで、羊を放牧していたわけではない。ちなみに「羊」という文字を何度も思い浮かべると、ああ、これは明らかに象形文字だなと思う。

「人間が羊毛を利用するようになるまで、羊の毛はどうしていたのかな」

 街を見おろすベンチに腰かけ、西尾香菜子がつぶやく。ああ、彼女も羊のことを考えていたんだ。

「確かに無駄にモコモコし過ぎだよね。よほど寒い地域に生息していたのかな?」

「ねぇ」と西尾香菜子が僕に向き直り、話しかける。彼女が僕の顔を見るとき、ふたりの距離は必ず近くなる。あんまり近いとキスしちゃうぞ、と考えるだけで顔が赤くなる。

「ねぇ、輪廻転生って信じる?」

「え、輪廻転生? ずいぶんと唐突だね」

「わたしね、いつかの昔に羊だったような気がするんだ」

「ふーん、どうしてそう思うの?」

「だってね」といって彼女はさらに顔と顔の距離を近づける。

「未年生まれの牡羊座で動物占いも羊だし、それにね」

 目線を下げて僕の目の前に頭を突き出す。

「かすかに角のあとがあるんだ、ほら。触っていいよ」

 彼女が両手の指で示す場所にそっと触れてみる。確かに髪の生え際から少し上に、左右対称に小さなコブみたいな盛り上がりがある。

「ほんとだ。角みたいだね」

「これ、小学生のときにクラスの友だちにバレて大変だったんだ。鬼だ!って言われて」

「うん、そうだろうね。僕も同じクラスにいたらみんなに合わせて囃し立てたと思うよ」

「んん、藤沢くんはその場にいても、そんなこと言わないよ。かばってくれたはずだから、絶対に」

 彼女は真顔で否定する。でもね、西尾、小学生の頃の僕は、みんなと一緒にからかったと思うよ、確実に。

「そんなことない!!」

 ん?

「それでね、わたし『鬼じゃないよ、羊だもん』って言ったの。すり替えね。鬼にされるくらいなら、角のある動物ならなんでもいいと思ったの。でも、あとから鹿のほうがかわいかったかな、とか思ったよ。でも、キリンだけは言うまいと思った。だって、その頃から背が高くてコンプレックスだっ……」

 あれ? なんだか彼女の顔のうぶ毛が伸びてきたような…。

「……から、わたし、前世はひつ、じだった気が…メ…するん、メェー」

 え? 瞳がヨコに伸びて、角がメキメキと盛り上がってる。
 僕は立ちあがって後ずさり、彼女から距離を置く。これは夢? それとも幻覚? 羊の姿に変わりつつある西尾香菜子は、僕になにかを求めるかのように、メェーメェーと鳴きながら近づいてくる。こ、恐い。正直…。だけど、逃げちゃダメだ、と胸のどこかが叫んでる。
 辺りを見回しても、誰もこの異変に気づいていない。散歩中の親子もダンスの練習をしている同じ高校の女の子たちも、僕らを見ることができる位置にいるのに、誰も気にしていない。
 羊になった西尾香菜子はメェーメェーと震えた鳴き声をあげながら、後ずさる僕を追いかけてくる。僕は走って逃げ出したい気持ちでいっぱいだったけど、羊になった彼女を置いていくことはできなかった。

 

「西尾、やっぱり羊だったんだー」「すっげー、体モコモコだぜ」「毛を刈っちゃおーぜ」
「やめなさいよ、香菜ちゃんがかわいそうでしょ」「誰か先生呼んできてー」「香菜子、大丈夫?」

 小学校の教室では大騒ぎになっている。僕は彼女を取り囲む集団の外にいて、なんとかしなくちゃと思いながらも動けずにいる。ああ、僕の大好きな西尾香菜子が羊になっちゃったなんて。

「藤沢くん、あなたが助けてあげなさいよ」

 女子のなかのひとりが僕を振り返って言う。途端に「そうよ、そうよ」「つきあってるんでしょ」「なんとかしてあげなさいよ」と追撃が放たれる。男子は「藤沢、キスしろー」「キス!キス!」と囃し立てる。集団のまん中にいる羊の西尾香菜子が悲しげな目で僕を見つめている。

 西尾、君はどうして羊になっちゃったんだ。僕はどうしたらいい? 僕にできることは何かある?

〈鬼に、鬼になりたくなかっただけなの。それだけは嫌だった。だから羊になったの。でも、戻りたい。普通の人間に戻りたい。助けて、藤沢くん!〉

 僕は西尾香菜子の気持ちが見えた気がして、勇気を出して彼女の元に歩みよった。羊になった彼女の頭をゆっくりと撫でてやり、鼻の突き出た顔を両手で挟み、顔を近づけた。

「えー、藤沢のやつ、羊とキスしてるぜー」「気持ちわりー」「藤沢くん、えらい!」「誰か、早く先生呼んで!」

 まわりの声など関係ない。僕は西尾香菜子のことがほんとうに大好きなんだ。だから彼女をどうやっても助けたい。ここは童話の世界でもなんでもないけど、もし僕がキスすることで彼女が人間に戻るならば、僕は羊の彼女に何度でもキスをする。これが僕の西尾香菜子に対する気持ちだーー。

 

「藤沢くん」

 唇が離れると西尾香菜子が言った。

「急にどうしたの? 泣いてるの?」

 彼女は羊ではなく、僕の知っている高校二年の女の子だった。僕は泣いていた。泣きながら彼女にキスしていた。

「だって、西尾が羊になっちゃったから」

「わたしが羊に?」彼女は不思議そうな顔をして、そして微笑んだ。

「よくわからないけど、でも、助けてくれようとしたんだ。そうでしょ?」

「小学校の教室で、羊になった西尾がみんなにいじめられていて……」

 僕が一連の出来事を説明すると彼女の微笑がすぅっと消え、急に泣き出しそうな幼い表情を見せた。そして、僕の背中に両手をまわして抱きついた。

「西尾? どうしたの?」

 なんだかわからないけど、僕はとても温かい気持ちで、苦しいくらいに胸がいっぱいだった。

〈ありがとう。藤沢くん〉

 彼女の言葉が10歳の少女の声で胸のなかに響いた。

 

 気づくと僕は真っ暗な水の底にいた。黒い影が僕の目の前で語りかける。

「で、どうだったかしら」

あれ? この声は……誰だっけ。

「あたしよ、あたし。かわいいヒレを付けたあたしよ」

あ、ああ、人魚の君か。あれ? 僕はいま寝てたのかな?

「寝てたと言われれば、寝てたかしらね。でも寝てないと言われれば、寝ていなかったかなぁ。まあ、どっちでもいいことよ。ところであなたは西尾香菜子さんのことほんとうに好きだったのね。それなら最初から彼女の痛みに気づいてあげられれば良かったのに」

ん? 西尾、香菜子? あれ?

 あ、思い出した。僕はさっきまで西尾香菜子と一瞬にいて、羊……ん? 羊がどうしたんだっけ?

 

 

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