言葉をなくす
【シークエンス】
彼女の右手の人差し指がさりげなく僕の左手に触れている。
僕らはバーのカウンターで飲んでいて、ふたりとも泥酔の一歩手前でかろうじて意識を保っていた。
僕らは共犯者だった。
絶対に他人に知られてはならない秘密を共有していた。その罪の意識がふたりを引き寄せ頻繁に会わせた。罪の共有を確認し合うことだけが僕らにとって慰みだった。
なぜ、こんなことになったのか。いくつかの不運な偶然が重なり、そこにたまたまふたりがいあわせて、ほつれた糸を取り繕うように僕らはそれぞれの手を汚した。
彼女には夫がいたし、僕には長くつきあっている恋人がいたが、ふたりとも一番近しい人にさえ、その話をすることはできなかった。
彼女の右手の人差し指は、僕の左手の甲に置かれたまま動かない。僕も手を引くことなく、ほんのわずかな接点で僕らはつながっていた。それでも彼女の体内で刻まれる脈を僕は感じていたし、そのリズムに僕自身の鼓動を同期させようとしていた。
いまにも閉じそうな瞼で彼女は僕を見つめ、何かを言おうとして形の良い唇が動きかけては止まる。発せられない言葉は、彼女の喉元を鳴らして生まれた場所へと帰ってゆく。
僕もまた、金縛りにでもあったかのように彼女を見つめたまま動けず、言葉の出口を見つけることができなかった。
喉が渇いていた。目の前のグラスはふたつとも空いている。
「何かお作りしましょうか」
バーテンダーの声がかかり、彼女が右手の指を静かに離した。
僕はゴクリと唾を飲み、少しかすれた声で「同じものを」と頼んだ。
僕らの手は離れたが、それでも互いを見つめ、ふたり言葉をなくしたままでいる。
コトリ、とふたりの前にチェイサーが置かれた。
「ありがとう」とバーテンダーに言い、僕はグラスの半分を口に含みゆっくりと喉を潤した。彼女もまたグラスに口をつけ、少しだけ水を飲んだ。
流れていたモードジャズの音が止み、レコードを取り替えるためにしばらく店内が静寂に包まれた。
ふたつ空いた隣りの男女が古い映画の話をしているのが聞こえた。幾度となく観ている好きな映画だった。思い浮かべただけで体内でメロディが流れる。
そうだ、彼女も映画が好きだったなと話を向けようとしたとき、忍び寄るようにその曲のイントロが流れた。
「えっ」
「偶然じゃないよね?」
隣りのふたりが反応し、バーテンダーが言い訳のように答える。
「ちょうどかけようと思っていたら、おふたりの話が聞こえて、迷ったんですけどそのままかけてみました」
三人の会話が始まり、僕は彼女を振り返った。長い髪を前に落として顔が見えなかった。
僕は彼女の右手の甲に左手でそっと触れる。
彼女は何も言わずに掌を返して僕の手を握った。彼女の掌は意外なほどに温かくて、僕は。
僕は突然泣きそうな気持ちになった。
いや、本当は突然なんかじゃない。抱えた罪の大きさと彼女が隣にいてくれる安堵感と、だけど、どこにもたどり着けずに深夜のバーで黙って座るしかない居たたまれなさが、僕の体内で溢れる寸前だった。
僕らはどこへも行けない。ただ、こうして手が触れあっているだけなんだ。
(終)
tamito
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