深海より愛をこめて ①

【小説】

 

 あまりに環境に適応し過ぎて時に人は、本来の姿とはまったくの別のものに外側から見えてしまうことがある。例えば、虎のようなウサギ、太陽のような月、海のような砂漠…。虎だと思って防御のために攻撃したら実はウサギを傷つけ、太陽だと思って手を翳したら月の冷たさに凍え、海だと思って飛び込んだら砂を噛む。だから我々は他者を傷つけないよう、自分が傷つかないよう、慎重に言葉を選んでは抑揚をつけ、いつでもメジャーを手にしては距離をはかっている。
 無意識にその対処法を身につけて、反射的対応になんら負荷を感じなくなることを、この世界では「大人になる」という。けれどその一方で、そうしたバランスを取れずに些細な言葉に傷つき、わずかな距離の違いに戸惑い足が止まってしまう人がいる。

 僕はずっと「大人」としてこの世間の荒波を渡ってきたつもりだった。鬼や大蛇と闘い、勝てぬまでも引き分けに持ち込んできたし、他者のなかに震えるウサギやリスを見つけ出してはおいしそうな草やクルミをあたえ、「怯えなくてもいいよ」と声をかけた。チャンスの到来や危機的状況には背中からバサッと翼が広がり、いつでも空を飛べた。たったひとつの言葉から世界を救うことだってできると本気で信じていた。そして、そうした姿がほんとうの自分だと確信していたんだ。

 でも実際は違った。鬼や大蛇の肝はむしろ驚くほどに小さかったし、ウサギやリスは僕の施しなどを求めてはいなかった。言葉には衣服と同じ程度の効果しかなかったし、翼は飛翔中に折れてしまい真っ逆さまに墜落した。鏡のなかには貧相な顔をした男がいて、僕と眼を合わせることすらしなかった。時間は恐ろしいほどに速く過ぎ去り、山手線と京浜東北線が並走する間に立っているかのように、僕は膝をガクガクと震わせた。

 だから僕は海に潜ったんだ。ひかりが届かないほどの深い深い海の底へ。そこで膝を抱えて天上の世界を上目遣いに見あげた。

 

どうかしてる。世界のすべてが比喩と擬態で構築されていたなんて。
どうかしてる。
ほんとにどうかしてる…。

「そうかな? どうかしてるのはあなたの目とオツムかもしれないよ」

そんなことはないよ。僕は見たんだ。白い壁が一瞬にして黒く染まって、何年も誠実につきあってきた知人の口から突然恐ろしい闇が出現して、僕を襲ったんだ。えっ、オツムってなに?

「へぇ、そんなこともあるんだ。上の世界は大変だね」

ん?……ところで、きみは誰? 真っ暗で何も見えないんだけど。

「それはあなたが固く目をつむっているからじゃないかしら。おかしな人ね」

僕が目をつむっている? そうか、気づかなかった。でも目を開けた途端、水圧で眼球が潰れないかな?

「うーん、あたしは大丈夫だけど……そうね、潰れるかもね。でも、そんな不自由な目なら潰れちゃえばいいじゃない」

そんな無責任な! でも、ほんとうにきみは誰なんだい? なぜ、深海にいるの?

「なぜって、それがあたしの現実だし当たり前なことだし。やっぱりあなた、おかしな人ね」

 僕は薄目を開けて様子を窺った。幸い目が潰れる気配はない。暗い影のように目の前に誰かがいる。もう少し目を開けてみる。人影が僕に顔を近づけてくる。

「見えた?」

いや、よく見えない。

「ちょっと待って」

 何かほんのり明るい照明が点いた。

「いま、ちょうちんあんこうをひっぱたいたから、しばらく明るいよ」

 薄明かりのなか影が顔を近づける。

「これであたしが見える?」

見えた。けどこれが現実なのかどうか、僕には判別できない。どう見てもこれまでに会ったこともないようなきれいな女の人が見える。ぼんやりとだけど、非現実的な美しさだ。

「当たり! それ、あたし。なんだちゃんと見えてるじゃない。ついでにこれも見てね」

 彼女がちょうちんあんこうを身体のラインに沿って首から胸元へと下げていく。

あ、あー、貝をつけているんだね。でも、その先はもういいから。

「むしろ、ここから下がチャーミングなんだけど」

くびれた腰から下に……ウ、ロコ? なめらかなウロコの曲線の先に……大きなヒレ? 脚線美よりも説得力のあるこの生物は…?

えーと、人魚?
「そう、当たり!」

えーと。
「いいでしょ?」

えーと。
「素敵でしょ? えーと多過ぎ」

うん、素敵なんだけど、流れがおかしくないかな。僕は上の世界が嫌になってここへ来たんだ。そんなところへアンデルセンの空想上の生物が、しかもこんなに非現実的な美しい容姿でいるなんて、ちょっと流れを壊すし、都合が良すぎないかな。だから、えーと。

「ふーん、そんなものかな。じゃあ、こうしたらどう?」

 次の瞬間、僕は見覚えのある懐かしい景色を窓際の席から見ていた。

 席?
 ここは……、高校の教室だ。

 

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tamito

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