こぼれ落ちた気持ち拾います (前編)

【小説】

 

〈こぼれ落ちた気持ち拾います〉

 街角で見かけた奇妙な看板に惹かれて、古びた雑居ビルの階段を三階へとあがる。なかに入るのを躊躇うほど錆びて赤茶けたドア。〈こぼれ落ちた気持ち拾います〉と手書きの朱色の文字。僕のこぼれ落ちそうな気持ちも拾ってくれるのだろうか。
 
 勇気を出してノックをするが返事はない。ドアノブを回してそっと扉を開けると、仄暗い間接照明のなか高価そうな調度品が並び、室内は意外に小綺麗だ。
 部屋の奥から「いらっしゃい」と声がかかる。落ち着いた張りのある声に少しホッとして部屋のなかへ足を踏み入れると、華奢な眼鏡をかけた白髪の男が珈琲を淹れている。湯を含んだ豆の香りが部屋のなかに広がる。
 
「あの」と僕は声をかける。
「こぼれ落ちた気持ちをどうやって拾うのですか?」
 
 男は黙って珈琲を落としている。
 
「えーと、料金はいくらですか?」
 
 淹れ終えた珈琲をカップに注ぎ、ソーサーに載せて男は僕に近づく。
 
「まずは、ソファにお座りください」と言ってカップをテーブルにコトリと置き、僕に向かってわずかに微笑む。
 
 僕は後悔をし始めていたが、何かに導かれるように皮張りのソファにゆっくり腰を下ろす。
 男は向かいの木製の椅子に座り、僕を正面から見据えてきっぱりとこう言った。
 
「西から来ましたね」
 
 西? 予想もしていない質問に戸惑ったが、一拍おいて僕は「はい」と答えた。僕の住む街は三鷹で、ここは新宿だから確かに西から来たことになる。まあ、四択を当てられただけの話だ。確率は25%。
 
「こぼれ落ちた気持ちの色は青ですね。…いや、正確に言えば縹色(はなだいろ)ですか。藍色よりも薄く浅葱色よりも濃い」
 
 僕は、完全に後悔していた。だけどこの男の表情に胡散臭さは見えない。もう少しだけつきあうつもりで僕は質問をした。
 
「こぼれ落ちた気持ちが何色かなんて僕にはわかりません。だけど、そんなことがどうしてあなたにはわかるんですか?」
 
 男はつるの細い眼鏡のブリッジを右手の人差し指で押し上げ、また、わずかに微笑む。
 
「あなたの気持ちから、シアンが82%、マゼンタが39%、イエローが26%欠けているからですよ」
 
 欠けている? 色が? 気持ちから? この男は頭がおかしいのだろうか。
 
「残った三色を配合すると、その縹色(はなだいろ)になるということですね」
 
「その通りです。理解が早いですね」
 
 僕は少しムッとして訊く。
 
「これまでの客と比べて、という意味ですか」
 
 男は黙って微笑み、「まあ、珈琲をどうぞ」と勧めた。

 珈琲は、ほのかな甘さが香る酸味に、舌の奥にわすがに苦味が残る。モカマタリをベースにしたブレンドで、そしてなにより煎られた豆が新鮮だ。
 
 僕は思わず「これは、うまい」と漏らす。
 
 男は端正な顔を無造作に崩して笑う。

「ありがとうございます。珈琲はお好きですか?」

「ええ、まあ」僕は気を許さないように曖昧に頷き、「焙煎もされているのですね」と店の奥に目をやる。

「本業はこちらなんですが」と男は名刺を差しだし、「珈琲は趣味が高じましてね」とうれしそうに笑う。
 
 名刺の肩書きにはこう書かれている。
 
《気持ち収集家》
 
 僕が怪訝そうに名刺を凝視していると、男が説明を始めた。

「コップに水が少しずつ貯まっていくと、表面張力を越えたところでこぼれ落ちます。こぼれ落ちたところで、水もコップも安心するんですね。それまでの緊張から解き放たれて。人の気持ちも同じなんです。抱えた気持ちが少しずつ膨らんでいって、ある日、突然に、溢れる。いろんな気持ちがありますから、溢れ方もそれぞれです。ある人は自分でも気づかずに涙の粒がぼとりと落ちる。ある人はお酒を飲んで隣に座る誰かに向かい堰を切ったように話し始める。ある人は心の殻を固く閉じて、それが過ぎ去るまで膝を抱える。そして、もっとも危険なのが、こぼれ落ちた気持ちが自己や他者に向けた攻撃衝動へと転化する人です。このタイプは表面張力の段階でわかりますから、こぼれないように少しずつ少しずつ、スポイトで水を吸うようにして、溢れさせないようにしてあげなければなりません。そうした、こぼれ落ちた気持ちや、こぼれ落ちそうな気持ちを拾いあげるのが、私の仕事です」

 男は満足そうな顔をして、僕の反応を見ている。その表情が気に喰わず、僕は質問を続ける。

「それは心療内科や心理カウンセラーの仕事ですよね?」

 男は、眼鏡のブリッジをもう一度右手の人指し指で押さえ、少し厚めのレンズの奥から楽しげな眼差しで僕を見る。

「はい。そうした資格は持っています。でも、それとは少し違うのです」

「どう違うのです?」

「それは」男は言いかけて言葉を一度とめ、「あなたが体験するなかで、わかります」と言った。

 僕のなかの〈完全な後悔〉はゆらいでいた。この男の胡散臭さはやはり気に喰わない。でも、僕もある種、同業者だから、男の手法に興味を持ったのだ。果たしてどんなやり方で気持ちを拾うのか。僕の気持ちはすでに、ギリギリのところで表面張力に支えられている状態なんだ――。

 

(つづく、そのうち)

 

tamito

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