彼女の1peace 【repost】
【シークエンス】
不満があるわけじゃない日常。不安があるわけじゃない生活。語りかけてくるタイムライン。先々まで埋まる週末の予定。だけど、彼女の心は満たされない。
何故なのかと心に問う。多少やっかいな同僚はいるけど仕事は充実している。互いに100%ではなくても彼との関係は安定している。親の心配もいまのところはない。では、何故なのか。どうしても何かが欠けている気がしてならない。ジグソーパズルの最後の1ピースが埋まらず、いつまでも探している。サイドボードの引き出しのなか、バッグの内ポケット、バルコニーのプラントの裏側、心のなかの古いキャビネの奥にしまったファイル…。
どこかにヒントがあるはずだと、彼女は実家の母に電話をする。
「珍しいね。なにかあったの?」
「んん、なんでもない。お母さん、元気?」
「んー、変わらず。一昨日スイミングでちょっと膝痛めた」
「ちゃんと準備運動したの? しっかりストレッチしなきゃだめだよ」
「うん、わかってるよ。で、なんの用?」
用なんかないのだ。母と話すうちに欠けたピースが見つからないかと期待してみただけだ。
「いや、用はないんだけど、いま忙しいの?」
「いまから掛川の大叔母さんが来るんだよね」
「そうなんだ。大叔母さん、体調良いの?」
「そうね、わりと落ち着いてるみたい」
そんな話の末に彼女は電話を終える。
会社で小さなミスをした。いままで経験のないタイプのミスでレアケースといえた。今度同じ流れで処理するときは気をつけよう、と彼女はその件に整理をつけた。だが……。
「あれ、佐伯さんらしくないですねー、そんな間違いしちゃって」
同じ部署の後輩、中谷に茶化すようにいわれてカチンときた。そこに悪意があるようには思わなかった。でも、彼女は引っかかった。
「これ、今回だけ納品先と請求先の数が違うんだよね。このクライアント今後も気をつけたほうがいいね。管理表の備考欄に入れとくから中谷くんも注意して」
PCの画面を見ながら言い訳のように返事をして、彼女は用があるふりをして席を立つ。
昼休み。いつものメンバーと食事に行く気にならず、時間をずらして一人で外に出る。もう日中の陽射しは春を通り越して初夏に近い。弁当屋でサンドイッチとコーヒー牛乳を買い、近くの神社へ行きベンチに腰を降ろす。桜は七分咲きだ。今週末にも満開になるだろう。
週末は前の会社の同僚から花見に誘われている。行きたくないわけではないが、少しだけ気が重い。行けば行ったで楽しいことはわかっている。気のおけない連中なのだ。なのに何故気が重い?
穏やかな陽光のなかでサンドイッチを頬張りながら、彼女は首をかしげる。
夜。一緒に住んでいる彼が帰宅して夕食をともにする。
「ねぇ、最近、わたし変じゃない?」
「どこが?」
「それがわからないから訊いてるの」
彼はいい人だ。嘘がつけない。彼女はたまに嘘をつく。だが、彼には嘘の匂いがまったくしない。だから、彼のことを彼女は信頼している。
ほうれん草のお浸しを摘まんだ箸を宙に浮かせて、彼が彼女を見つめる。
「どうした。なにかあったのかな」
「わからないの」
「ふむ。春だからかな。ほら、去年の今頃もユキちゃん調子崩していたよね」
パクリとお浸しを口にほうりこみ、彼が彼女の様子を伺う。
「うーん、それとはまた違うと思うんだよね」
「そう。じゃあ、ひとつひとつ原因を考えてみようか」
まったく申し訳なくなるほどいい人なのだ、と彼女はつくづく思う。
また別の夜。早い時間帯のバーのカウンターで彼女はひとりでペールエールを飲んでいる。一人で飲むのは居心地がいい。つい何かから逃げるようにどこかの店に駆け込んでしまう。だから彼女は週に一度の止まり木と決めている。
「ユキさん、花見はしますか?」
若いが落ち着いた口調でセカンドのバーテンダーが話しかける。天候と季節の話はバーのセオリーだ。この店のスタッフは教育が行き届いている。彼女は話に道筋をつけることを好む。だが、今日は敢えて答えを外す。理由はない。
「桜って好きじゃないんだ」
「そうですか、そういう人もいますね」
「それまでの閉じた季節がいきなり開くようで戸惑う」
適当に並べてみた言葉が、案外、的を得たなと彼女は会話モードに入る。
「そう思わない?」
「そうですね。桜って幻想的ですし、ちょっと怖い気もしますね」
「坂口安吾」
「はい。花見客が一人もいない山のなかの桜の森だったら怖いです」
「ひとりでそんなところにいたら、おかしくなるだろうね」
「僕は絶対に行きたくないです。代々木公園あたりがお似合いですね」
「そうお? そんな幻想的な花見なら行きたいのだけどな…」
彼女は頬杖をつき、頭の片隅にぼんやりと浮かんだイメージを追いかける。
海。水曜日。朝、会社に向かう電車に乗り、降りるべき駅を降りずにそのまま彼女は海に向かった。
海に来たのは久しぶりだ。生まれ育った町は海に近かった。この街に来てからはあまり海を見ていない。たまに訪れる港はとても海とは言い難い。
低い堤防に座り水平線を眺める。潮風に吹かれ髪が流される。鳶が風に乗って凧のように上空にとどまる。犬を連れた老人が波打ち際を歩く。どこかから口笛を吹く音が聴こえてくる。右側から母子が堤防のうえを歩いてくる。口笛は母親が吹いている。聴いたことのあるメロディーだ。彼女も口笛を吹こうとする。しかし、うまく音が出ない。唇をとがらせ何度か空気を送るがかすれた音しか出ない。舌で唇を濡らしてもう一度空気を送ろうとした刹那、風が凪いだ。〈ピー〉と思ってもいない音程で彼女の笛がようやく鳴る。母子が驚いて彼女を見る。彼女は笑顔でいる。笑顔で涙を流している。
(おしまい)
tamito
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