まだ携帯電話なんてなかった頃

【小説】

まだ携帯電話なんてなかった頃。
待ち合わせは場所を細かく決めたし、両親と住む彼女の家には深夜数秒の狂いもなく約束の時間に電話をかけた。

プッ、呼び出し音の"ソ"の音がコンマ2秒くらいで消え、彼女が受話器を口許に近づけ、少しかすれた小声で話す。

「もしもし」

「よかった。すぐに出てくれて」

「受話器を手にして待ってたから。ちょっと待ってて、子機に代えてわたしの部屋に行くから」

呼び出し音はまず親機が鳴り、一拍遅れて子機が鳴るから、彼女はいつもリビングの暗闇のなかで僕からの電話をひっそりと待つ。そして電話が通じてから子機に切り替え、自分の部屋へと足を忍ばせる。

僕はこの一連の動作がたまらなく愛おしい。ふだんは一見クールに見えて面倒なことを避けようとするのに、こんなにも細やかな配慮をしてまで、僕とつながることを望んでくれている。
そして、足音を立てないようそっと階段を昇り、彼女の部屋の扉が閉開されると、子機ではなく僕自身が彼女の部屋に忍び込んだ気持ちになる。

「はぁ、小声で話すのは疲れる」

「声をひそめた少しかすれたトーンが僕はすきだよ」

「ええ、やだよ。ほんとに疲れるんだから」

この一連の動作に僕が、胸が締めつけられるようなせつなさと、そして血が沸きたつような高揚感を覚えていることを彼女は知らない。

それから10数年が経ち、いくつかの偶然が重なって僕はひさしぶりに彼女に会い、ふたりでBarで飲むことになった。

「変わらないね」

長く伸ばした髪をかきあげながら彼女がいう。

「僕は変わったよ。変わらないのは君だ」

彼女は僕とつきあっていた10数年前よりも格段にきれいになっている。

僕らは互いの来し方を語り、会っていなかった期間の溝を埋めようとしたが、それは僕の知る彼女ではなかったし、そして彼女の知る僕とはかけはなれていたはずだ。

結局、僕らのなかには、当時を振り返り懐かしむ気持ちはあっても、そこに新たに火が灯るような情は起こらなかった。

それでも一度だけ、あの時の感情にシンクロする瞬間があった。
それはあの頃、田舎の町全体が寝静まった深夜に、僕らふたりだけがひっそりと彼女の部屋で、まるで時空のポケットに入り込んだように永遠と感じられる時を共有していたことだ。

「変な話なんだけど、藤沢くん、あの頃電話で話すとき、欲情していたよね」

楽しそうに彼女がいう。

「えっ、そんなことないよ」

あわてて僕はいいながら、当時の硬くなった感覚とふと身体が同期した。

胸が締め付けられるようなせつない気持ちがよみがえった。

それから僕と彼女はさらに2~3杯ずつ酒を飲み、そしてそれぞれの現実へと帰っていった。

僕たちは互いに携帯電話を持っていたけれど、連絡先を交換することはなかった。

tamito

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