不確かな世界で

【小説】

 

 毎朝、決まった時間に起きて顔を洗い、歯をみがき、ヤクルトを飲み、トーストをかじりながら天気予報を見る。降水確率が30%以上で昨日より3度以上気温が低ければ、着る服を悩やまなければならない。もう秋の斥候は二週間も前から関東平野に忍び込み、そろそろと本隊を呼び寄せようとしているのだ。

 通勤快速は一足飛びに郊外の住宅地から都心へと労働者を運ぶ。そうして8時30分をまわるとターミナル駅はスーツを纏った人で溢れ、さまざまな感情がもつれて息をするのも苦しくてしょうがない。そのうちにきっと、都心で一日を過ごす人たちは皆、携帯用の酸素ボンベを背負って街を歩くようになるのだろう。酸素ボンベメーカーの株価が上がることは明白だが僕は買わない。その行為こそ構造をより堅固なものへと導くからだ。

 ほとんどの人は目の前にある業務を、その日片づけるべき分量だけこなして、一日の仕事を終える。会社を出ると、ハッピーアワーで一杯150円のビールを飲むか、まっすぐ家に帰って発泡酒のプルトップをプシュっと開ける。そして「この一杯のために頑張っている」と心のなかで呟く。

 そして、夜。わずかな時間をささやかな趣味にあてる。または、テレビ放送が作為的に垂れ流す〈アレ〉に感性を麻痺させられてだらだらと過ごす。短い人生の貴重な時間を――。

 疑問を持ってはいけないのだ。この社会に生きるための条件は、それを構築するシステムの根底にある目には見えない枠組み、それをはみ出さないこと。いつの間にか洗脳され、ものごとの本来の本質に思考が辿り着かないよう複雑な迷路や罠が用意され、例え、試みようにもその先へは決して進めない。まるで砂漠に立つ巨大な要塞の外に張り巡らされた結界。それを越えないよう高度に複雑なシステムが一人歩きを始め、もはや誰もそれを変えることはできないのだ。

 これほど確かな世界にいるように見えて、僕らはどれほど不確かさを感じているか。

 無限ループのような通勤快速は、なんのために存在しているか、そこに駅があるならばすべて止まればいい。朝、なぜトーストを食べなければならないのか、小麦の自給率はわずか10%しかないのに。テレビ画面がお笑いタレントで占められているのは、日常のふとした隙間に落ちて、この構造に気づかれることを防ぐための無気力化が狙いだ。

 身体の痛みには痛み止めを。心の傷みには麻痺剤を。いづれも副作用を伴い、そのために生じる新たな疾患にまた別の薬を投与する。

 冷静になれ、と心に命じて、身体のなかにある本来の姿を感じる。そして、考える。この確かに見える世界はたかだか一世紀ほどの幻で、こんなにも不確かな世界だということを。

 気づかぬままに産まれ、そして逝けるのであればまだ幸せだ。気づいてしまった僕らは、それでも結界の外へと出られない僕らは、薬を拒否するくらいしか、為す術がないのだ。この不確かな世界で――。

 

tamito

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