深海より愛をこめて ③

【小説】

 

〈喜劇は悲劇を覆い隠すためにつくられる。その逆はない〉

 誰の言葉かは知らないが、恐らくはチャールズ・チャップリンかロビン・ウィリアムズあたりなら、似たようなことを言っただろう。でも、この言葉はいま僕の頭のなかに沸いて出たから、取り敢えずは僕の言葉としておく。あくまでも取り敢えずは、だ。異議申し立てはいつでも受け付ける。責任は取れないけど、いとも簡単に撤回してみせる。でも、この物語とはなんら関係のない言葉だ。僕はただ、悲劇で終わらないことを心底願っているだけなんだ、この物語が…。

 世の中のすべてが比喩と擬態で構築されていることに心底嫌気がさした僕は、深い深い海の底に潜った。それ自体が比喩なのか僕が深海魚に擬態したのか、いずれにせよ僕が忌み嫌う行為を自ら行っている気がしないでもないけど、一方でこの世界は矛盾にも満ち満ちているのだから、まあ、仕方ないと言えば仕方ない。ん…仕方ない? ああ、でもそんな風にすべてを許容していってしまったら、少しずつ少しずつ、世の中の軸を曲げていくことになる。そうしたら、なんのために深い海の底に潜ったのか、その理由が……。

「さっきから、なにブツブツ独り言を言ってるの? それとも、誰かあたし以外のかわいこちゃんに話しかけてた?」

 とびきり美人の人魚だ。ちょうちんあんこうの発する薄明かりのなか、艶っぽい姿勢で僕の隣にぴったり寄り添って座っている。

「それで思い出せたの? 西尾香菜子さんにあなたがどんなひどいことをしたのか」

ひどいこと? 僕が? 彼女に? よく覚えていないのだけど、僕はむしろ彼女に感謝されたような気がするんだけど。

「それはテイク2での話でしょ! あたしが言ってるのはテイク1のことよ。ほんとにあなたのオツムは大丈夫かしら」

テイク2? オツム?

「そう、テイク2。あたしが与えたセカンドチャンスよ」

セカンドチャンス?

「ねぇ、二回連続のオウム返しはご法度よ。ああ、海の神さま、どうか、この哀れな子羊をお救いください」

子羊? 羊…あ、そうだ! 羊だ! 僕は羊になった彼女にキスをして人間に戻したんだ……って、変だよね、それ。まるで童話のなかの世界だ。

「あら、童話の世界のどこが変なのよ。じゃあ、あたしのこの素敵なウロコとヒレはなに?」

あ、ごめん。君を否定するつもりはないんだ。でもね、たぶん僕は夢を見ているんだ。夢のなかで夢を見て、その夢のなかでまた夢を見たんだ。ちなみにいまの僕らは夢の第一階層だね。

「あら!〈夢の第一階層〉ってなんだか素敵な響きね。 そんなタイトルのショパンの曲がありそう。それともあなたは詩人なのかしら? だけどね、これは夢ではないし、夢落ちだけはなにがあっても避けなければいけないのよ、よろしくて?」

よろしくて? って、マリー・アントワネットかお蝶夫人しか使っているのを見たことないよ、マンガでね。それに、僕は夢落ちを心から願っているよ。ある朝、目覚めると世界から比喩と擬態と矛盾がなくなっていて、誰も誰かを傷つけないし、誰もが誰かから傷つけられることがないんだ。いつだって五月の心地よい風が吹いてる。そんな世界に目覚めるんだ。もう、200日も降り続ける雨にはうんざりなんだ。

 とびきり美人の人魚はつまらなそうにヒレをパタパタさせている。

「ほんとわかってないのよ、あなた。そのためにはあと194回もテイク2を経験して、過去のすべての間違いを正しい選択に修正しなければいけないのよ。よろしくて?」

194回?! さっきみたいなことを194回も?

「そうよ、194回。たとえ1回だっておまけしてあげないんだから!」

いや、そんなかわいく言われても…。それに僕はこれまでの半生で194回も選択を間違ってないと思うんだけど。

「ふぅー。確かに多過ぎて嫌になっちゃうわよね。少なく見積もりたい気持ちもわかるわかる。あたしだったら絶望してそのまま300年くらいは眠っちゃうかな」

いや、それは逃避だし…。でもだよ、僕のこれまでの間違いを194回も修正してしまったら、いまの僕にはならないと思うんだけど。タイムトラベラーのパラドックスのように。

「あら!そんなことどうでもいいじゃない。どうせ矛盾だらけのク◯みたいな人生なんだし。あらやだ、はしたない。それよりも少しでも世界を良くしたいのだったらやるべきなんじゃないかしら」

ふぅむ。どうもこの会話はあまり実りがないような気がする。そもそも人魚と話していること自体があり得ないし…。

「あなたは、ほんとうに、まだ、なにも、わかっていない……。とりあえず次のテイク2へ、お行きなさい!!!」

 

 

 ん? ここはどこ? 川?

 

 

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