花の匂い
【シークエンス】
魔女は言った。
「ありあまる才能を授け、富と名声を約束しよう。その代わり、おまえは生涯女性と愛しあうことはできないのじゃ」
就活で落ち続けていた僕は魔女の提案に心動かされた。でもそれを受けたらきっと、大好きな彼女を手放さなければならないだろう。
「さあ、どうじゃ、愛しあわなくても金さえあれば疑似恋愛はできるものじゃ。ちなみにあと1分しか待たんからな、わしは忙しいのじゃ」
僕は魔女に逆提案をしてみた。
「富と名声のうち名声はいらないから、その代わり、たった一人の女性だけとは心から愛しあえるっていうのはどうかな?」
「いいじゃろう」魔女は即答し、ひとつだけ条件を加えた。
「その女性が少しでも淋しい思いをしたら、おまえを千年の孤独の刑に処す、それが条件じゃ」
僕はその契約にサインした。でも、そんな契約なんてするべきじゃなかったんだ。
僕はいま千年の孤独の刑に服し、40年が経とうとしている。刑期が明けるまであと960年もある。気の遠くなる話だ。
なぜ彼女に淋しい思いをさせてしまったのか、そればかりを考えて永遠とさえ思える時のなかに僕はいた。
彼女は素晴らしい女性で、たぶん、僕にとりたてて才能がなくても、生涯年収が地方公務員以上でなくてもきっと、僕のことを心から愛してくれたはずだった。彼女に淋しい思いさえさせなければ、いや、僕が変な欲をだして魔女と契約さえしなければ、二人しあわせに暮らせていたはずなんだ。
僕は牢の小さな窓から外を見た。外の世界は暖かな日差しを受けて、草木が芽吹き、蝶が蜜を求めてひらひらと花畑を行き交っている。
ときおり風に吹かれて花の匂いが微かに、この孤独の牢のなかに入ってくる。彼女はどうしているだろう。家族に恵まれ還暦を過ぎて、しあわせに暮らしているだろうか。
彼女は花瓶の花を取り替えて彼の眠るベッドサイドに置いた。少しだけ開けた窓からやわらかな風が吹いてくる。彼女は眠る彼を見つめた。眠り続ける彼を彼女は献身的に世話し、そして待っていた。
まだ学生のときに愛しあっていた彼が、原因不明の奇病で眠り続けて40年が過ぎた。その間彼女は就職し、8人の友人の結婚式に出席し、兄と妹に3人のこどもが産まれ育ち、先月、年の離れた兄が亡くなったが、一度も結婚をせずに長い年月をひとりで過ごしてきた。いつか彼が目覚めるんじゃないか、という思いが彼女をそうさせた。
彼の病気は眠り続けるだけで、脳も臓器もすべての機能が正常だった。ただ、ひとつだけ奇妙な症例があった。それは歳をとらないことだった。代謝に問題はなかったし、眠り続けているとはいえ、身体は劣化するはずだった。なのに彼は眠り始めた21歳の姿のままなのだ。
彼を見るたびに彼女は思う。もし、もし彼が目覚めたとしたら、彼は歳をとった私を愛してくれるだろうかと。
それを思うと彼女は悲しくなった。若い頃に、何人かの男性から告白され、交際を申し込まれた。歳を重ね、眠る彼のことを理解したうえで結婚を申し込んでくれた人もいた。そうした申し出をすべて断って、彼女は彼に寄り添ってきた。
彼には目覚めてほしい。だけど、目覚めてしまったら……。眠る彼の手を握り、彼女は涙をこぼした。
「ずいぶんと悲しそうじゃな」
突然背後から声が聞こえ、振り返るとそこには黒ずくめの老婆がいた。
「わしはその男を目覚めさせることができるが、どうじゃ、ほんとうに目覚めてほしいか」
彼女はからかわれていると思い、老婆に怒った。
「ふざけないでください。私がどんな思いで40年もこうして彼につき添っているか知りもしないで!」
「ほう、それはどれほどの思いなんじゃ」
泣きながら唇を噛みしめ、彼女は静かに答えた。
「彼と代わってあげたいほどの思いです」
目覚めるとベッドの脇の椅子に座っていた。目の前には年をとった女性が眠っていた。
ここはどこだろう。病院? この人は誰だろう? 僕は何をしているのだろう?
何もかもわからず、僕は眠る女性の顔を見つめた。この人の顔、知っている。僕はなんとか思い出そうとしたが、頭のなかでぼんやりとした人影が浮かぶだけだった。
ふとベッドの脇を見ると、そこには名札があった。この名前にも覚えがある。僕はその人の顔を見ながら、その名前を何度もつぶやいた。
あと少しで思い出せそうなのに。日が暮れて夜になり、そしてしらじらと夜が明けるまで、僕は名前をつぶやき続けた。
翌日も、その翌日も、そのまた翌日も、僕はベッドのわきに座り、その人の顔を見て、その名前をつぶやき続けた。
そして5日目の朝、ようやくすべてを思い出した。
魔女との契約、彼女に淋しい思いをさせてしまったこと、孤独の牢で40年過ごしたこと。
「ようやく思い出したようじゃな」
振り返るとあのときの魔女がいた。
「おまえがこの子を思い出さずにこの部屋から去ったならば、もう二度と現れるつもりはなかったよ」
「いったい、どういうことなんだ」
僕は魔女の黒いマントを掴んで訊いた。
魔女は、爪の伸びた皺だらけの右手を僕の頭にかざした。……すると、この40年に彼女の身に起こったすべてのことが僕の脳裏に流れ込んできた。
彼女がどんな思いで僕の側にいてくれたか、それを思うと涙が止まらなかった。そして、魔女の契約にすべてを託したこと。
「この子は40年待ったのじゃ。そして、いまはおまえがいた牢のなかに一人孤独でいる」
「なんでもする。お願いだ。彼女を助けてくれないか」
冷淡な顔で魔女がいう。
「21歳の姿をしたおまえはこれから一年ずつ歳をとるが、この子は61歳のままで眠り続ける。どうじゃ、おまえはこの子がしたように、40年寄り添うことができるか?」
「できるよ、彼女のためならなんだってできる」
「よかろう。では、もし40年寄り添えたら、そのときはこの子を目覚めさせてやろう。その代わり、途中で諦めたらこの子は一万年目覚めることはない」
それから20年の時が経ち、僕は41歳になった。
僕は働きながら朝夕は必ず彼女のベッドの側で過ごし、花を飾り、語りかけた。
「約束の半分が過ぎたよ。あと20年、必ず君を待っているから」
彼女は孤独の牢にいながら孤独ではなかった。彼は必ず待っていてくれる、魔女の出す条件にのってくれたはずだ。その証拠に……
今日も花の匂いがする。
(おしまい)
tamito
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