誰も知らない国の王女

【灰谷魚トリビュート小説】

※本作は、灰谷魚 作『誰も知らない国』を下敷きにして執筆したトリビュート作品です。

 

 

 

菱川リカはいつも決まって休み時間を屋上で過ごす。

教室ではひとつに結わいている長い髪を解き、晴れた日には手すりにもたれて風に吹かれ、雨の日には傘の下でうずくまるように膝を折り手のひらをじっと見つめる。高校に入学して以来もう半年もそうして過ごしている。

菱川リカの家は彼女が中学三年の夏に父親の会社が傾き、代々住み続けた大きな屋敷を手放した。この町の人間なら誰もが知っている。市役所の年報に載っていても不思議じゃない、それくらい大きな屋敷に住んでいた。一年前までは。

屋敷を手放す前と後とで、彼女の思想と行動は一変した。

以前は親の期待に100パーセント応えた優等生で、試験では学年で3位以内から外れたことはなく、毎朝時間をかけて整えられた長い黒髪は艶やかで、いつも背筋をぴんと伸ばしまっすぐに未来を見つめて歩いていた。ともだちの多くは彼女の屋敷に次いで大きな邸宅に住む女の子たちで、そのグループは端から見て宝石箱のように輝いていた。

以後、彼女は自らそのグループから遠ざかり、休み時間になると教室から姿を消した。グループのなかでも特に親しかった女の子が「今まで通り友達だよ」と何度も慰めたが、彼女の心を溶かすことはもちろんできなかった。イママデドオリトモダチダヨ、なんて陳腐で薄っぺらな言葉だろう。
彼女の自慢の長い黒髪はこころなしか艶をなくしたように見え、以前は鮮やかな色をさまざまに発色させた彼女を慕う影の色さえも薄い灰色になった。そして勉強することを放棄し、試験のたびに順位を50番ずつ落とした。

「勉強したところでね、いくら努力して何かを積みあげたところで崩れ去るのは一瞬なんだよ」

ある時、菱川が僕に言った。

僕は高校二年の春、新学期の二日目にひとつ年下の菱川リカに出会った。

休み時間のたびに彼女は僕のいる屋上を訪れたが、はじめのうちは僕の存在に気づいていないように見えた。僕は本の頁を捲りながらときおり彼女に目をやったが、二三日もするとまた本の世界に没頭するようになった。

雨の日、僕はいつものように屋上の出入口の踊り場で本を読んでいると、そこへ彼女がやってきた。しばらく窓の外を眺めてから階下へと戻り、そして再び傘を手にしてドアの前に立つと躊躇することなく雨のなかへと出ていった。

そんなふうに四月が終わり五月が過ぎ六月のある雨の日、僕は彼女と初めて言葉を交わした。

傘を手にして窓の外を眺めていた彼女が突然僕を振り返り、「ここにいてもいい?」と抑揚のない声で言った。彼女の発した言葉の意味を僕の脳はすぐに解さず、僕は黙って彼女を見つめた。彼女は僕に言葉をかけたことが苦痛でならないといった表情で僕が手にする本を見つめたまま立っている。

ようやく言葉の意味を理解した僕が「どうぞ」というと、彼女は僕の座る対角線上に腰を降ろし、おもむろに天井を見あげた。つられて天井を見るとそこには大きな染みがあった。スカンジナビア半島を中心にした世界地図のようにも見えるし、古代エジプト人が描いたツノの生えた山羊のようにも見える。

その日は、休み時間のたびにわずか2メートル四方の踊り場で互いに最も遠いところに座りながら僕らは過ごした。

彼女は天井の染みを見るのに飽きると手のひらを見つめ、手のひらの皺を一通り確認し終えると、窓の外の雨を眺めた。

午後の最後の休み時間。
窓の外を見ていた彼女が声を発した。

「その本のなかにも犯人はいないの?」

僕は彼女の意を汲もうとしばらく考えたが、あきらめて言葉を返した。

「この本は犯人が出てくるような種類の話じゃないんだ」

彼女は僕の返事になんの興味も示さずに、今度は自らのまだ短すぎる半生を語りだした。

彼女のまだ短すぎる半生については通学途中の小学生でさえ噂にするくらい有名だったから、僕もおおよそのシノプシスくらいは知っていた。ただ本人が語る物語には色があり風がそよぎ光と影が輪郭を縁取った。

僕はひと言も挟まずに彼女の言葉を聞き続けた。6時限目の予鈴がなり、授業が始まっても話は終わらなかった。終業のチャイムが鳴り、日が暮れ始めても彼女の話は続いた。
やがて、階下から光の輪が揺れながら近づき、憐れな警備員が幽霊でも見たかのように驚いて腰を抜かしたところで、僕らはようやく腰をあげた。

次の日からまた菱川リカは僕の存在などないかのように振舞い、いつものように手すりにもたれ、長い黒髪をなびかせた。

僕は本を読み続け、本を読むのに疲れると菱川を眺めた。

夏休み。
僕は三日に一度は菱川のことを考え、彼女の抱える絶望について心を合わせようと試みた。でも、結局はうまくいかなかった。いくらたくさんの本を読もうが、どれほど近づこうと心を砕こうが、所詮、人は人の本当の気持ちなんて理解できない。
僕の十七歳の夏は敗北の季節だった。

九月。
学校が始まり、僕らは変わらず屋上にいた。

ある気持ちよく晴れた月曜日。1時限目の休み時間に、菱川リカは僕の目の前までやってきて僕が手にしている本を指さして言った。

「その本のなかにもやっぱり犯人はいないんだよね?」

僕は彼女の言葉を無視して活字を追い続けた。

「前に、あなたに似た人がいた」

唐突に菱川が言う。

僕は読みかけのブローディガンを伏せて、彼女を見る。あまりいい気はしなかった。

「へぇ、どこにいた?」

彼女はしばらく考えるように視線を遠くの山に置き、もう一度僕を見て言った。

「誰も知らない国」

僕は目をつむり、彼女のなかの"誰も知らない国"に心をよせた。

秘密のかくれ家、
廃屋の物置、
電気スタンド、
大量の本、
ぼろぼろのソファ、
額縁に入った抽象画、
その扉を閉めると、もう誰も入ってこない。

誰も知らない国


(終)

◆トリビュート作品 目次はこちら 

 https://note.mu/muturonarasaki/n/n0bbf12ce99a3

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