真夜中の珈琲

【小説】

夜中にふと珈琲が飲みたくなり台所の棚を探るが、豆を切らしていたことに気づいた。

コンビニの豆を買ってくるかそれとも、この時間にまっとうな珈琲を出してくれる店はないか、とあれこれ考える。

とりあえず気を紛わらすために換気扇の下で煙草をくわえライターを手にするが、何度石を擦っても火花が散るだけで炎は立たず。そう言えばマッチがあったな、と引き出しを開きかけて思い出した。

そうだ、あのBarだ。

ウイスキー中心の本格的なShotBarで、シガーも吸えておまけに旨い珈琲まで出してくれる。

良質なロブスタ豆をその都度挽いて、サイフォンでじっくり蒸して淹れる珈琲。考えただけで喉がなる。薫りまで漂ってくるようだ。

車で行こうか、いや、待てよ。あのBarに行って珈琲だけで済むはずがない。棚に並ぶ旨そうなシングルモルトを飲まずにいられるものか。

タクシーにしよう。

僕は寝ている妻に念のため伝言メモを残し、深夜1時20分、玄関のドアをそっと開け音をたてないよう慎重に鍵をかけた。


通りには何台ものタクシーが走っていた。

しかし、そのすべてが実車か迎車で、いくら待っても赤い空車の文字はやってこない。こんなことなら電話して呼べばよかったかなと思ったが、妙なもので、一度、流しのタクシーを待ってしまうと意地でも捕まえてやる、と後戻りがきかなくなる。

結局、2キロ先のBarに向かい、振り向き振り向きしながら歩くが、空車はやはり一向に来ない。来る気配すら感じられない。きっと今夜は東京中のタクシーが出払っていて、客が降りたとたんにまた乗ってと、引きも切らず夜遊びの客が利用しているのだろう。もうすっかりシャワーを浴び、歯を磨いてベッドで本を読んでいたやる気のない人間を、乗せる余裕など今夜のタクシーたちにはないらしい。

歩くか、と決めて、もう後ろも見ずにしばらく夜空を眺めながらほとほとと通りをゆくと、1台のタクシーがスーと吸い寄せられるように僕の目の前で停まった。

後部座席のドアが開くと何やら言い争う声が聞こえ、「このクソオヤジ!」と捨て台詞を吐きながら派手な女の子が降りてきた。真っ赤なドレスに紫のショールを羽織り、頭に巻き貝を載せたみたいな女の子だ。

僕は女の子と入れ替わるように開いたままのドアに半身を入れ、「乗せてもらえますか」と訊くと、運転手は「ああ、もう今日は気分わりーからしめえだよ、しめえ!」と言い、ドアを閉めて急発進した。

危うくドアに頭を挟まれそうになりよろけながら歩道に戻ると、そこに女の子が大の字に寝ていて、今度は顔を踏みそうになってバランスを崩し、結局、折り重なるようにその子の上に倒れた。女の子を踏まないように足場を気にして倒れたから、クルリと反転して顔がちょうど太ももの間にスッポリ入るかたちで全体重を乗せてしまった。

「イッター、ちょっと何?痴漢?やめてよー!」と背中から腰にかけて強打され、何とか立ち上がると女の子は泣きながら怒っている。

これは逃げるしかない、と歩き出すと、「こら!逃げるのかー!」と後ろから声が追いかけてくる。

まずい、下手したら警察に捕まる。冤罪ってこうして起こるんだよなぁきっと、と歩を早め、少し先まで行って振り返ってみた。

女の子はまだ歩道に寝ながら文句を言ってるが、声はだいぶ小さい。そしてやはり泣いているようだ。

僕はその場で煙草を1本吸い、さらに様子を見ていると急に声がしなくなった。死なないよな、こんなに簡単に、と思いながら一歩、また一歩と近づいてみる。

間近まで行き、顔を覗きこんでみるとどうやら少し苦しそうに寝息を立てている。

まさか、ほっとくわけにはいかず、しばらく考えた末、仕方なく肩を揺すって声をかけてみる。

「あの、大丈夫ですか?こんなところで寝ていたら危ないですよ」

明らかに大丈夫じゃない人に「大丈夫ですか」と訊くのはおかしいよなと思い、言い方を変えてみた。

「あの、ダメですか?たぶんダメなんですよね?でもここで寝ていたらみんなが迷惑するので、早く起きあがって家に帰ってくださいね」

みんなではなく迷惑しているのは僕ひとりだ。

ああ、なんでこんなことになるのか、厄介ごとだけは避けるよう注意深く暮らしているのに。これじゃあ、何のために奥さんと会社の上司に口答えをせずに日々我慢しているのか、わからないじゃないか。

とブツブツとたぶん声に出して呟いていたら、女の子がむくりと上半身を起こした。ドレスの肩が外れ、小振りなおっぱいが見えそうで見えない。

「ちょっと」と言って僕の肩に手を掛け、よろよろと起きあがろうとしたので、腰に手を回して支えた。

「あー西崎さん?送ってくれてありがとーございます」

呂律が回っていない。

「あの、僕はですね、通りすがりの善意の第三者で、西崎さんではないんですね」

女の子は「あああ?」と僕の顔を覗きこみ、「じゃあ、西崎さんの部下の人?」と訊いた。

「いや、西崎さんの部下の人でもなくて、僕は通りすが・・・」

・・・女の子が勢いよく胃のなかのものを戻した。彼女のドレスと僕のTシャツとお気に入りのカーディガンが、赤っぽい液体と細かく刻まれた麺のようなもので汚れた。

この状況下で考え得る最悪なケースだ。赤い液体はワイン、細かな麺はパスタだろう。それ以外の吐瀉物は判別がつかない。

「気持ち悪い」と言いつつ女の子はブルッと震え、もう一撃来るかととっさに離れると、彼女は支えを失いしゃがみこみ、自分の膝の上豪快に戻した。

気持ち悪いのは見ているこっちも同じだが、まだ、戻してない分だけ僕のほうが部が悪い。すっぱい液が喉にせりあがるのを必死に堪えて飲み込んだ。

僕は気持ちよく吐き終えて呆然としている女の子に改めて声をかけた。

「どう、少しは良くなった?」

「・・・んんん、酔い覚めた。頭いたーい」

「家は近いの」と訊くと目の前のマンションを指さした。

「だったら早く家に入ったほうがいいよ」

と言うと、力なく手をあげて僕を掴もうとする。

「連れてって。動けないから」

女の子はようやく顔を上げ、焦点の合った目で初めて僕の顔を見た。

「で、あなた誰だっけ?」

よく見ると意外に幼い顔をしている。

「あれ?もしかしてー、その服の汚れはー、私のアレかしら?」

エレベーターが7階で開き、女の子を支えながら部屋の前まで連れてゆき、鍵を預りドアを開けると、女の子はよたよたと玄関と床続きのキッチンにダイブした。

「じゃあ僕は帰るから」と鍵を女の子の掌に乗せ、振り返りざまにダイニングテーブルの上のものに目が止まった。

かなり高級そうなサイフォンとミル、そしてロイヤルコペンハーゲンの珈琲カップがきれいに並んでいる。

そうだ、珈琲を飲みに来たんだった。

僕はサイフォンを眺めながらしばらく思案し、そして倒れている女の子に提案した。

「えーと、実は僕は珈琲を飲みに行こうとしていたのだけれど、成り行きで今こうして君の吐瀉物まみれで君の家の玄関でまぬけ面をして立っている。君はさっきエレベーターのなかでクリーニング代を払うと言っていたが、それは断った。ところで君はかなりの珈琲好きと見るが、新鮮な豆は冷蔵庫あたりに入っているのかな?もしあるならば、どうだろう。僕が珈琲を勝手に淹れて、ひとりで飲んでもいいだろうか」

女の子は何も言わずにうつ伏せに倒れたままだ。

「こんな時間に見ず知らずの男から、こんな提案をされても、かなり抵抗感があるとは思うが僕は・・・」

「いいよー」

「えっ」

「いいよー、私の分も淹れてね」

女の子は仰向けに寝返り、魅力的な笑顔を僕に向けた。

さて、では珈琲を淹れさせてもらおう。

僕は「お邪魔します」と言って靴を脱いで部屋にあがり、まっすぐ冷蔵庫へと向かった。

扉を開くと、ガラガラの冷蔵室には豆の入ったガラスの密封容器が3つ、ラベルを正面に向けきれいに整列して並び、僕のことを待っていた。


tamito

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