「礼とは何か」桃崎有一郎:日本の社会規範は?

社会の規範について、最近気になっていた。
本の整理をしていたら、昔、何気なくこれも気になって買ったままになっていた「礼とは何か」という本を見つけた。

そうだ昔の社会規範はここにあったのではないか、と思って読み始めた。

そこに書かれていたのは、礼は雑多な礼儀作法ではなく、統治のための思想であるようだ。

<礼>とは、世界(天地をはじめとする森羅万象)の摂理を理解して、
理性的に<すべき物ごと><それをすべき時><それをすべき人>を特定し、<すべき時に、すべき人が、すべきことをする>ように、
そして<すべきでない時に、すべきでない人が、すべきでないことをしない>ように定めた思想の体系であり、世界観であり、
そして統治のテクノロジーのパッケージである、と。

(「礼とは何か」桃崎有一郎 以下同じ)

社会が安定的に運営され、発展するためには、どう生活すればよいか、統治者の立場から見たものといえる。

<礼>思想には、先後絶対主義と根源至上主義がある。

「礼記」の「大学」という篇目には、つぎのように記されている。

すべての物ごとには本と末があり、終わりと始まりがある。万物の先後関係を知れば、世界全体を律する法則に近づける。

<礼>思想は、この(AがBを派生させたが、その逆ではない)という因果関係を、物ごとの価値の重さと結びつけ、
(だからBは自分の根源であるAに対して一方的で絶対的な従属関係にあり、AがBより必ず大切さだ)という価値観を導き、
それを万物に適用した。
この価値観は、「根源至上主義」と呼べるだろう。

<礼>思想が重視したのは、(親が子を生む)ような純粋な因果関係にとどまらない。
その証拠に、<礼>思想は「長幼の序」を重視する。
兄が弟を生むわけでないが、(兄が守り導くからこそ弟がこうしてあり得る)という形で、兄の存在は弟の存在の前提になっている。
それも含めて(先後関係を忘れるな)といっているのである。
根源至上主義をも包括したこの考え方は、「先後絶対主義」と呼べるだろう。

日本人の特性で言われている先輩、後輩関係がある。
ある集団に加入すると先に入った人が年齢や経歴にかかわらず、集団では先輩としてインナーでは上位に扱われる。
これは儒教の影響といえるかもしれない。

しかし、現代では正面切ってはその考え方は容認されていないし、時代を追って戦前の規範は希薄になっている。
そしてそれではいかにも生きにくい場面がある。
人々にとってある種の規範は必要だからである。

現代日本で<礼>を実践する場合に必ずつきまとう問題を指摘することはできる。それは(<礼>が身分制社会を大前提としている)ということと、(現代日本が身分制社会でない)ことの矛盾だ。
江戸時代まで日本は身分制社会だったが、明治維新で四民平等になり、そして日本国憲法ではすべての国民の人権は完全に対等になった。
その平等社会に、<礼>思想をそのまま適用することは、原理的に絶対にできない。
ただ、(ならば<礼>など全廃してしまえばよい>と結論できないところが、人間社会の妙味でもある。
人間としての権利は対等だが、それでも社会には上下関係がある。
教える人間を敬わないと、知識や技能は得られない。
出資者を敬わないと、資金は調達できない。
人事権を持つものを敬わないと、就職できない。
先に知識・技能・富などを持つ者が、常に後発の者より優位にある。
それこそ世界の摂理として避けられないことだ。
・・・・
すると結局、問題は局所的な視野に、つまり(今、自分が所属し、自分にとって重要なコミュニティの中で、礼節の場がどこにあるのか)ということに落ち着くはずだ。

日本では礼の考えは、小さなコミュニティには依然として円滑なツールとして知っておくべきだろう。
さらに、東アジアで何らかの話で合意を得ようとする場合、
礼は頭に入れておくと役立つかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?