『民主主義の人類史』:なぜ中国は西洋と異なる道を進んだのか

『民主主義の人類史』デイヴィット・スタサヴェージ著。
民主主義はどこから始まり、どのように維持されて、将来どうなるか-アメリカのデモクラシーの成功などをみながら、
これからどこに向かうのか理解するためデモクラシーの世界のディープ・ヒストリーに目を向けるとして、この本は執筆されている。

この本で興味を引かれたのは、中国の歴史だ。
なぜ、西洋の民主主義と違った歴史を歩んできたのかだ。
それは官僚機構が古代から強固に成立していたからというのが、ひとつの大きな答えだという。

周の登場以後か、ひょっとしたらそれ以前から、中国の支配者は官僚機構を通じて統治していた。
この政治的経路には、集約農業に適した自然環境のほか、生産、観察、管理のテクノロジーの発達も有利に働いた。
集権的な官僚機構は春秋時代に崩壊したが、戦国時代には、先例よりもはるかに大規模な官僚機構がふたたび見られるようになった。
秦や漢の支配者は、この官僚機構の伝統を利用したのだ。
戦国国家どうしの競争はほかの分野のイノベーションも促した。
戦国国家の支配者は、農業に直接課税する大規模なシステムを発達させた。また彼らは大規模な、ヨーロッパ人が19世紀になってようやく発達させたような徴兵制度にも依拠していた。

 西ヨーロッパでは、大規模な徴兵の登場は、その見返りとして政治的権利の拡張を推し進めた。
そのときのスローガンになったのは、・・「1人1丁1票」だった。
中国にこれに相当する表現はない。
戦国時代もそれ以降も、強力な官僚機構があるおかげで、政治的権利を与えなくても社会のメンバーを戦場に駆り出せたからだ。

(民主主義の人類史:デイヴィット・スタサヴェージ)

そして、さらに重要なことは、科挙の制度だという。
これが疑似ではあるが、地方からの代表制のような役目を果たしたようだ。

行政官試験を通じて官僚を採用するという中国の慣行は、オートクラシーを維持するうえで決定的に重要なものだった。
有力な家系や貴族、その他の地元集団から人材を採用する代わりに試験制度にすることで、社会そのものから独立した選択方法が可能となった。
これが確立されるのは唐(618~907年)から宋(960~1278年)の時代だが、この試験制度の発祥はもっと古い。
『漢書』には、紀元前165年に候補者が首都に送られ、文帝が直接試験したという記録がある。
また紀元前130年には、宗廟礼儀を担当する太常が候補者を試験したと記録されている。

この制度の重要さを理解するには、中世ヨーロッパのパターンと比較するのがいいだろう。
ヨーロッパでは、さまざまな有力者や教会の指導者、市議会のエリートなどが身分制議会に集まることで各地域の利害が代表されていた。
一般人も、こうしたエリートが自分のことを代弁してくれていると感じられる限りにおいては、代表されていたことになる(もちろん実際にはほぼそうはならなかった)。

中国の制度では、もはや地方エリートが公的な役割を担うことはなくなった。
代わりに、試験で好成績をとった誰かかによって一般人が「代表される」ということが起こった。
この制度があまり民主的でないことは明らかだ。
これでは一般人の代表を国家が選ぶことになる。
しかし一般人の視点で考えると、それで必ずしも状況が悪くなったとは言えない。
封建諸侯によって代表されるのと実力主義の試験で採用された官僚によって代表されるのと、どちらがましだろうか。

(民主主義の人類史:デイヴィット・スタサヴェージ)


日本についての記述もほんのわずかにある。
それは弱い国家では、初期のデモクラシーは発生しやすいという文脈のなかでだ。

この本では、初期デモクラシーが支配的になるのは、支配者が生産について確信をもてないとき、民衆が支配者を必要とする以上に支配者のほうが民衆を必要とするときだと主張している。


たしかに、投票と多数決の慣行を発展させたのはヨーロッパ人だけではない。
たとえば、鎌倉時代(1185~1333年)の日本では、あれこれの宗教集団が集団的な自治を行っていて、多数決のルールを用いていた。
しかし、こうしたものにヨーロッパで行われたのと同じ耐久性があったかどうかは明らかになっていない。

(民主主義の人類史:デイヴィット・スタサヴェージ)

日本では平安時代に遣唐使などが中国の制度や文物、文化を取り入れていた。
しかし、科挙は導入していない。
諸説があるが、まず地方に試験を受ける人物が育っていないことがある。
中国とは大きな文化的な差があり、試験そのものが意味をなさないのである。
そのおかげで中国のような強固な官僚制度は近代まで存在しなかったといえる。



中国は、西ヨーロッパがたどった政治的発展の道筋の、これ以上ないほど明白な代替を示している。
ヨーロッパでは、官僚国家が登場するのはゲームの終盤になってからで、それよりずっと早い段階ですでに初期デモクラシーの慣行がしっかりと根付いていた。
中国では、官僚機構による秩序がごく早い時期に登場し、春秋時代のような中断はあっても、根強く残った。
このシステムは外部からの侵略があっても生き残り、外部からの征服者たちは官僚機構を解体せずに、むしろ取り入れた。
自然環境がこの結果につながった決定要因だとするのはさすがに誤りだろうが、結果として大きく影響したことはたしかだ。
最終的に中華帝国は大いに衰退するのだが、それは歴代の皇帝が、当初は国家にあった能力を少しずつ解体していくという選択をしたためだった。

(民主主義の人類史:デイヴィット・スタサヴェージ)


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