「喧嘩両成敗」と日本の民衆

「自壊する『日本』の構造」から「日本的ナルシシズムという構造と自壊」(堀 有伸著)は、日本社会の持つ傾向を、精神分析の概念を援用して分析したものだ。日本文化を貫くアンチ・ロゴス主義を、歴史を通じて振り返っている。
その中で筆者が興味を持ったのは「喧嘩両成敗」だ。
ケンカをした両者に対して、その正否を論じず同等の処罰を与えるという法であり、外国ではあまり例がないようだ。

1526年最初の記載が明確に認められ、戦国時代を通じて急速に全国に普及し、江戸時代以降は「天下の大法」と呼ばれるまだになった。
室町時代などの中世の日本人は非常に好戦的であり、死者が複数生じるような係争が頻回に起こり、仇討ちも盛んに行われていた。
そこに秩序を回復するためには明確なルールが必要だったが、民衆が受け入れたのは喧嘩両成敗の法だった。

この法はその後に戦国末期から江戸時代にかけて再び抑制されるようになったが、江戸時代においても、赤穂浪士の事件のように民衆の「喧嘩両成敗」の感覚に反する裁定を幕府が行ったことにが、後の大騒動につながった事例が認められる。

問題となるのは、喧嘩両成敗の発想では事態の真相解明を突き詰めず、介入のための原理原則も明らかしない。
その場に関わった人々の情緒的な納得感を醸成することが、主たる目的になる。
つまり言語を介さない情緒やイメージが優位の精神性と相性のよい法制度である。


明治政府が日本に近代国家を樹立する過程において、それが近代的な支配を日本中の隅々まで及ぼそうとした時に、さまざまな地域社会で、近代的な統治に頑強に抵抗するムラ社会・郷党社会の土着的な世界観とその実践形態にぶつかることとなった。
(明治初期の日本政府が)ここで選択したのは「わが近代日本においてはとくに権力が道徳と情緒の世界に自らを基礎づけた」こと、道徳を介した支配というべきものである。
実際の権力の不足を補うために、日本社会全体を天皇が家長である一つの家族と見立てる雰囲気・空気を醸成し、その空気との情緒的な一体感を美化・理想化することで、「みんなが頑張って我慢しているので、私もそうしないと申し訳ない」という心情に国民が敏感に反応するように誘導し、その影響力が国民全体に貫通することが目指された。

この経過において、前近代的なムラ社会・郷党社会の掟(そこには、道徳・倫理・政治・経済・教育等のあらゆる生活の要素が包含されている)が、国家運営の根本的な原理として運用された。
それが成文化したのが、1890年に発令された教育勅語である。
それ内容はほとんどの人にとって納得しやすい内容である。

しかし、藤田省三によると教育勅語の制定が、さまざまな地域で頻発していた係争を収めるという政治的な目的で行われ、近代的な批判精神を抑える意図があったという。
ここには西洋から受け入れたくない個人主義を排除したい明治政府に脈々とつながる考えがある。

教育勅語の制定に重要な役割を果たした井上毅が山縣有朋への手紙には、勅語が満たす条件として
「難解な哲学上の理論が入り込むことを避ける」
「政治上の事柄に巻き込まれるような内容は避ける」
「漢字の表現や、洋風のスタイルを使わない」
「愚かな行為、悪を戒めたりする言葉を使わない」
「世にある流派の一つを喜ばせ、他を怒らせるような表現は使わない」
が挙げられていた。

これは「喧嘩両成敗」に内在していた、「論理」や「法」を排除する前近代的なモーメントが、明治政府という近代国家の統治手法の中枢に据えられたことを意味した。

現代でも1974年の田中角栄首相の退陣後に大平正芳・福田赳夫両氏の争いが激しくなった際に、弱小派閥に所属していた三木武夫が首相となった状況で喧嘩両成敗の思考法が働いたといわれている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?