「新版 日本官僚制の研究」辻清明、 「官僚亡国」保阪正康

保阪正康氏は戦時下の官僚の責任を問う。

太平洋戦争はその開戦までのプロセスを見ると、大本営政府連絡会議、そして御前会議によって最終的に決まっている。
この決定にかかわったのは政府側からは首相、陸相、海相、外相、蔵相、企画院総裁などわずか6人程度である。大本営側からは参謀総長、参謀次長、軍令部総長、軍令部次長の4人である。正式に決定にかかわったのはわずか10人といっていい。
本来なら国家の運命と国民の生命と財産を守らなければならないはずなのに、それを真剣に討議することなく開戦を決めたのである。
この10人ほどのメンバーが、実はすべて官僚である。
ここに政治家はいない。重臣もいない。経済人も、言論人も、そして宮廷官僚もいない。すべてが官僚であるか、官僚出身の閣僚である。
太平洋戦争を分析するには、政治論、軍事論、戦略論、歴史論、文化論などあらゆる視点から検討することが可能だ。
だが、もっとも重要であると同時に、もっとも検討しなければならないのはこれまでとかく軽視されてきた官僚論に立っての分析。
あの戦争の見通しのなさ、指導者の責任のがれ、戦争下に出された文書など官僚の性格と軌を一にしていることに気づく。
                     「官僚亡国」保阪正康より

辻清明氏は、昭和22年10月の時点で、日本官僚制と「対民衆官紀」の論文に問題の所在を次のように述べている。

終戦いらい、過去の日本における民主制の成長を圧殺してきた軍閥・財閥・官僚に対し、それぞれの視界から活発に批判が行われてきた。
それらの多くが、歴史の舞台から姿を消して行くものに投げかけられた挽歌であり、呪詛であったのに較べて、ひとり官僚に向けられた批判のみは、あたかも鉄壁に放たれた豆鉄砲のごとく、その地位は悪罵と嘲笑の裡にも依然としてその揺るぎない存在を維持している。
否、そればかりでなく、最近においては「新興官僚」の台頭という流行語の示すように、その地位はいっそう強化される傾向をすら示している。

何が問題だったのか。
民衆に対する特権的な意識であるという。

明治いらいの根強い伝統を有するわが官僚制は、それ自体一つの膨大にして強力な特権的体系を形成し、あたかも封建時代の武士階級のごとく、民衆に対して久しく高圧的な権威の行政を行ってきた。
いいかえれば、日本官僚制の最大の特色は官職を占めることによってかれらの享有する社会的特権が、民衆の眼に一つの身分的優越を表象するものとして映じていることにある。
すなわち、ここではトルストイが「復活」のなかでいみじくもネフリュードフに語らせているように、「官職は人間に対して人間らしい同胞的態度をとるものでなく、これを物品として取扱うことのできる一種の職業」であった。民衆の間に古くから浸み込んで容易に拭い去れない「官尊民卑」の忌まわしい風潮は、こうした官僚制の特殊的性格が生み出した不幸な畸形児である。すなわち、採り上げるべき問題はまず官吏の民衆に対するうれうべき物品視的態度である。

明治維新いらい、近代化は表面的には進んできたが、民衆の意識のなかには依然江戸時代の意識が根強く残っていることだ、という。

日本における官僚の特権的地位の由来は、明治維新が単なる制度の外見的移植という意味での国家の近代化であり、本質的意味の市民革命でなかった点にあることは、今日自明の事実に属する。
したがって、封建社会を市民社会へ転換せしめる役割をもった絶対制は、その社会的変革の不完全性に照応して、当然従来の封建的性格を継承しつつ、その後のわが国の政治体制を支配することになった。
官僚制の最初の登場が絶対制の所産であることをおもうとき、わが国の官僚制がそのまま旧い封建的身分支配の原理を払拭しえなかったことは当然であろう。
なによりも、明治初期におけるいわゆる「官員」、しかも士官等、直接民衆と接渉関係をもつ末端行政機関が、多く解体された封建家臣層によって占められたこと(明治4年における中央官庁九省の官吏中87%が、同じく明治13年における中央・地方官吏中74%が士族である)、
依然虎の威を借る狐として民衆に対するかれらの「切捨御免」的態度を容認し、両者の関係は「お上対百姓素町人」として律せられる結果を導いたのである。
こうした官僚制の特権的性格が、今日なお、一種の行政的伝統ないし惰性として役所の窓口に働く官吏の行動や民衆を糺明する警官の意識を強く支配していることは我々が日常散見するところである。

保阪正康氏はその著書で、軍事官僚のトップの東条英機が、国民に対してどう思っていたかを述べている。

東條は首相時代に、「国民は灰色の存在である。私たち指導者が白といえば白となり、黒といえば黒にかわるのである」と発言している。まさに今の官僚にも通じる愚民意識である。
・・・・・
この愚民意識は「愚かな国民に選ばれた政治家も愚かだ。だから、彼らの言うことなど聞く必要はない」という考えになります。
政治家は本質として、大衆におもねるポピュリストだというわけだ。
官僚の正統性の根拠は何かといえば、試験だ。
能力的に頂点の存在だから、国民を支配し、指導する権利があるという論理なのだ。
だから「官僚はごうまんだ」「国民を軽視している」という批判は痛くもかゆくもない。
・・・
かつて陸軍でも、陸大の卒業成績が5番以内という恩賜組だけ集めた、まさにエリート中のエリート部署があった。
戦争指導の中心だった参謀本部作戦部である。
その人事は陸軍省人事局ではなく、参謀次長直轄とされており、ここから発せられる作戦司令は天皇の命令そのもので、どのような内容であれ、現場は背くことができなかった。
しかし、この作戦部の軍官僚は現場をまったく知らなかった。

戦前の官僚制が問題だったかもしれないが、さらにその精鋭である陸軍の世界はさらに異常ともいえる世界だった。
そこには国民目線はなく、エリート意識に固まり、反論は許さない無謬神話に彩られた世界である。


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