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なぜ、ディズニーランドは埋立地に作られたのか?

「住民の7割が漁民の町に、海を埋め立てて遊園地を作ろう」

東京ディズニーランドの興りは、一言で言えばこのようなものだった。印象は最悪である。悪意に溢れたインターネッツでは、生きていくことのできない誕生譚だ。

だが、物語には表と裏がある。
その点、「浦安市郷土博物館」は、「なぜ、ディズニーランドは埋立地に作られなければなかったのか?」がわかる資料館だ。
今回は「浦安市郷土資料館」のテーマ展示室「海とともに」を見ながら、「東京ディズニーランド建設によって失われたもの」「それでも東京ディズニーランドを建設した理由」について紹介する。

この記事は

この記事は、ゆる学徒カフェで収録したラジオ「なぜ、ディズニーランドは埋立地に作られたのか?」の台本です。
実際のラジオでは学芸員の資格をお持ちで海洋生物に造詣の深い海洋君を聞き手に迎え、TamifuruDが有難くも大暴れをしています。是非お楽しみください。


アサリの街

浦安のかつての主産業は、「貝」と「海苔」の漁業だった。

戦国時代、現在の葛西から浦安にかけて、堀江ほりえ村・猫実ねこざね村・当代島とうだいじま村という3つの村があった。元々これらの地域は江戸幕府が所有する土地で、人々は塩を作って暮らしていた。18世紀初頭には塩浜永しおはまえいが免除され、人々は漁業へと進出していった。村は江戸への近さを活かし、魚介類の供給地として発展していった。
特に蛤で有名になった。漁師たちは、蛤の模様を「耳」いい、黒い線の入った殻は「耳黒」、真っ白のものは「耳白蛤」と呼ばれたようだ。特に「耳白蛤」は100個中1〜2個しか出ない貴重なものだった。

村の合併により「浦安村」が誕生したのは1889年(明治22年)、市制が施行されたときのこと。1909年(明治42年)には浦安町になった。
同時期、浦安では海苔の養殖が盛んになっていった。これが追々、浦安の基幹産業になっていく。当時、元々塩を作っていた地域が農地として耕され、稲作を行う地域になっていたのだが、稲刈り後の土地を使って冬場に海苔を乾かすことができたという。

こうした経緯で、町内には漁業関係者の方が多く住んでいた。貝類の仕分けや加工を行う「むき身屋」がおり、東京の魚市場では「貝の相場は浦安で決まる」と言われたという。

重なった不幸

漁業の町として栄えた浦安町。この町を、二つの災難が襲った。

一つは、1949年に東京湾を襲ったキティ台風。当時の人々によれば、これは「戦争の次に思い出したくない出来事」だったという。浦安町はもともと、江戸川から流れてきた土砂が堆積してできた土地だ。江戸川と旧江戸川に挟まれた島のようになっていたため、台風の影響で発生した高潮により14箇所の堤防が決壊すると、町は浸水してしまったのだ。その後、1955年には念願のコンクリート製堤防が完成する。
この頃、海の一部を囲い込んで土地を埋め立て、農地を増やす計画が提案される。これは、国が策定した食糧生産計画に基づいていた。農地拡大への賛否か浦安町漁業協同組合が分裂し、浦安町漁業協同組合(通称、本組合)と浦安第一漁業協同組合(通称、第一組合)へと分裂してしまう。
町はたちまち財政難に陥り、町役場は役員の給料すら払えない状態になってしまった。

さらに追い打ちをかけたのが1958年の「黒い水事件」である。旧江戸川へ排出された黒い水が浦安の漁場に影響を及ぼし、魚介類のほとんどが死滅してしまったのだ。漁獲量は減少の一途を辿り、漁師たちの生活は困窮していく。 同年6月、悪水の放流停止と損害補償を要求する「町民大会」を開催しました。その結果を伝えるため、浦安の900名の漁師が国会議事堂や東京都庁を訪れた。その帰り、本州ほんしゅう製紙江戸川工場へ大会決議書を渡しに向かうと、工場で警察官が多数待機していた。そのまま、彼らと戦闘になってしまう。
実はこの頃、日本全国で同様の水質汚濁問題が発生していた。浦安町の一件を皮切りに日本全国で漁民大会が行われるようになると、最終的には「水質二法」が制定された。これは、環境を守る法律として日本初のものだそうだ。

希望の光

「暗闇に差した希望の光」。これは、浦安市郷土資料館の展示から抜き出した章題まさにそのままだ。ある実業家・・・・・から、「東洋一の大型遊園地を建設するために、大三角(旧江戸川河口の町有地)を払い下げてほしい」と申し出があった。1960年、町はこの土地を売却。これが後の「オリエンタルランド」であり、東京ディズニーランドである。

京成電鉄株式会社の川崎千春と三井不動産の江戸英雄が「オリエンタルランド設立計画趣意書」をまとめあげたのはこの頃だった。漁業継続が絶望的な状況から、2つの漁業協同組合は漁場の一部埋め立てという苦渋の決断をする。62年に漁業権一部放棄が決定され、埋立事業がスタートした。このとき交渉にあたった髙橋政知は、後の東京ディズニーランド開園時に社長を務める。そしてついに、71年には漁業権全面的放棄がなされた。

千葉方式

ちなみに、この埋立事業は千葉県がオリエンタルランド社に発注した県の事業である。第1埋立事業ではABC、第2埋立事業ではDEF地区の埋め立てが実行された。このあたりちなみに、東京ディズニーリゾートがあるのはC地区。D地区はリゾート施設が、E地区は鉄工所や造船所があるあたり。AB地区は今は住宅地へと姿を変えたのである。

埋め立て方式も千葉方式と呼ばれる。県が埋め立ての権利を持ちつつ、埋立地へ進出予定の企業から資金を集め、実施された。ポンプ式浚渫しゅんせつ船で海底の土砂を吸い上げ、木の柵で区切った地域へ排出する。

70年代に入ると、浦安には地下鉄東西線が開通し、町は大手町まで約20分という好立地を手に入れた。東京のベッドタウンとしての立場を得たことで、農業を営む家庭はほとんどなくなった。
同時期、町は「浦安町総合開発計画」を策定した。「緑あふれる海浜都市」をテーマとする指針の中には「東洋一の遊園地の誘致」も含まれていた。この年、株式会社オリエンタルランドはディズニーランド誘致計画を開始する。

日米最大の協力事業

その結果、日本に東京ディズニーランドがやってきた。

東京ディズニーランドは、ある意味ではアメリカと日本とがソフト産業、特にエンターティンメント産業で本格的に手を組んだ初の事業であったといえる。(中略)映画やテレビ、あるいはジャズグループの日本公演などということは数えきれないほどあったろうが、アメリカのエンターテインメント・ビジネスそのものが、事業として本格的に上陸したケースは過去にはなかったはずだ。

ダグラス・リップ(著)・日下公人(監修)・賀川洋(訳)『TDL 大成功の真相─ディズニーランド日本上陸記』1994

そして、東京ディズニーシーもやってきた。

海を埋めて、その上にわざわざまた海を創るのか!
と笑われるかもしれないが、だからこそ海に対する憧れを醸成するパークを創造できるかもしれない。
ランドに対するシー。非常によいではないか。
日本はまわりを海に囲まれた国である。
日本人としてもなじみの深いテーマである。

加賀見俊夫『海を超える想像力─東京ディズニーリゾート誕生の物語』2003

多くのディズニーファンは、東京ディズニーリゾートで幸せな時間を過ごすと「ありがとうディズニー」と言う。もちろん、それも正しい。

しかし、埋立事業を敢行した株式会社オリエンタルランドへの感謝も忘れてはいけない。
例えば先に紹介した髙橋政知については、そのエピソードが星の数ほど伝わっている。埋め立て用のポンプ式浚渫しゅんせつ船が海苔の養殖棚を破壊したときは、工事を請け負ったゼネコンの人々に先駆けて謝罪に訪れた。補償金を使い込んで博打に大負けした漁民に頼み込まれれば、自腹で金を貸した。彼の奥様はニュージーランド大使館の前を通るとそっぽを向くという、その建物は髙橋が交渉継続のために売り払った自邸だったからだ。

そして何より、こうした説得を受け入れ、成功するか不透明なビジネスに生活の基盤となっていた海を明け渡した浦安町民たちこそ、真に感謝する相手である。
今では下火となった海苔の栽培、ほとんど漁獲されない貝類、かつて漁業に使われたベカ船と呼ばれる船や、干潟の原風景……。
「浦安市郷土資料館」ではそうした「東京ディズニーランド建設によって失われたもの」と「それでも東京ディズニーランドを建設した理由」が語られている。

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