誕生日
実は今日、誕生日だった。
私の周りの大人たち、とくに女性の方はよく
「大人になると、誕生日なんてひとつも嬉しくないよ」
と言っている。
具体的には誕生日そのものよりも、歳を1つ重ねることに嫌悪感を示している様子だ。
世間一般的にも、珍しくない意見だと思う。
それに対し、逆張りをする意見となり恐縮だが、私は誕生日を迎える度に嬉しいきもちになる。
年齢がひとつ増えることに、確かな満足感を覚えるタイプだ。
そういうタイプに、最近なれてきた。
確かに歳を取ると、目に見えるところも、目に見えないところも老いていく。
それまでできていたことが、じわじわとできなくなっていく。
それらは確かなことだけど、別にそれが何なのだ、という気持ちだ。
この期に及んで、揚げ物をお腹いっぱい食べたり、逆上がりをしたいだなんて思わない。
オールでカラオケをしたり、自分の瑞々しさを思いっきり主張したいだなんて思わない。
かつてはそういうこともできていた。
その事実が揺るがない以上、私にとってそういった意味での老いはなんら寂しいものではないのだ。
それよりも、それまでできなかったことができるようになったり
苦手だったり嫌いだったりしていたものが許せるようになることの方が、私にとっては何よりも幸福に感じられる。
ナスが美味しく食べられるようになったり、コーヒーが飲めるようになったり。
自分とは違う価値観の人に心を荒らされなくなったり、他人の弱さや強さへの寛容さを持てるようになったり。
日々の暮らしや生活に寄り添える豊かさが、確かに身に着いている。私は私でありながらも、どんどん魅力的な人物になれているような気がする。(ナスや春菊を美味しいと思えるのだ!)
その魅力は若さには依存していないもので、これから先の長い人生において、きっとなによりも頼りになる杖となるはずだ。
それから、この一年間で様々な気持ちや考えを、歌や動画にして残していくことができた。
それらの存在が、私がただ老いていっただけではないことを証明してくれているような気にもなっている。そういう意味でも、どんな形であれ、創作をするということはよいことかもしれない。
つまり、だから、私は誕生日を迎えることが好きなのだ。
一日中ぐうたらしていたり、ダラダラと過ごす日々も勿論あったが、それでも確実に前には進んでいるような実感がある。手から離れていったものも勿論多くあるけれど、それらは手から落としてしまったのではなく、そこに置いてきたものなのだと考えるようにしている。
常に自分が自分であることを誇りながら、毎日を過ごすことができた自分を、私は自分で祝ってやりたい。
誰かを祝う誕生日曲もいいけど、自分を祝ってあげる誕生日曲だって必要なはずだ。
例えばこんな風に。
タイトルはありませんが、聴いてください。
https://vt.tiktok.com/ZSFftR3nB/