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神棚がほしい話

神棚がほしいんですよね。

特に特定の信仰をもっているわけではないですが、神社仏閣が好きです。
神様も仏様もいると思ってるので。心の中では。
いない、という人に対して「いや!いる!」と力説するつもりはないですけど。
かといって「うちの宗教いかがですか」は断固お断りしますけど。

「神様って本当にいるんだな」と思ったのは初めて伊勢神宮に行き、五十鈴川にかかる宇治橋を渡り、玉砂利を踏みしめながら歩いているときでした。内宮ですね。このときは観光気分でのお参りだったので、神様ウェルカムな心の準備はしていなかったのですが、そこは神様がいる空気にみちみちていたのでした。「うわ、ここ神様いるわ」と思った。このときから私の中では「神様はいる」ということになりました。

「仏様って本当にいるんだな」と心底思ったのは、法隆寺で。けっこう前のことで、何度目かの参拝のとき。そのとき私は法隆寺金堂の釈迦三尊像の前にいました。シーズンは秋で、ほかの場所では修学旅行の学生たちも見かけていたのだけど、金堂には私以外に誰ひとり、いないという状況。本来ならいるはずの(椅子はあった)監視係みたいな人もいない。仏様と私の1(ではないが)対1。

このときね、本当に怖かったんですよ。怖いといってもオバケ的なことではなくて、目の前におわすお釈迦様に心の奥まで見透かされているという感覚。別に見られちゃ困る心の奥もなかったはずなんですけど。

そのときに思ったのは、仏様(この場合は、仏像、かな)になにか説明できない力があるんだとしたらそれは、その前で手を合わせて幸せな夢も恨みがましい呪い事も願ったたくさんの人たちの情念のようなものが仏像にはこもっているんだろうなと。

まあ結局(昔から言われていることですが)、神様も仏様も、人が作り出しているってことなんでしょうね。神社仏閣で手を合わせるのは、実は自分に向き合っているんだろうな。それでも、いや、それだからこそ、お参りにいくと身が引き締まるというか、ピリッとした心持ちになるんだろうな。自分に向き合うことなんて家にいたって布団にもぐっていたってできるわけだけど、神様仏様を経由することで言い訳やデモデモダッテなしに向き合えるのかも。

と考えながらも、本当にいるんだろうな、とも思っていたりもするんですが。

さて、冒頭の話です。
神棚がほしいんですよね。
毎朝、手を合わせることで気持ちを引き締めて、いい気分で一日を始められそうだよなあ、と思ってて。日本の神様はどこにでも存在するので、手を合わせるのが神棚でなくてもいいのかもしれないんですが。

ただねえ…自分の暮らしぶりを振り返るに、神棚を清浄に保つ自信が一切ないんですよ。あーあ神棚ホコリかぶっちゃって神様ごめんなさい、ってしょっちゅう思っていそうなことは想像に難くないんです。

なので、ちょっと無理なんだろなとは思ってはいるのですが、「神棚ほしいなあ」とはずっと思ってるんだろうな。

ではまた。

トップ画像はイラストACより。

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