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システムがシステムを作る仕事

どういうことだと思いますか?これは私がだいぶ昔(数ヶ月前)に書いたタイトルです。何を考えてこのタイトルを書いたのか全くわかりません。思い出せない。
ひとつめのシステムがなにをあらわしていて、ふたつめのシステムがなにをあらわしているかという話になると思います。
はぁ?さぁ。まるでわかんないですね。
否定しているのか肯定しているのかそれとも提起しているのか、そんなことも忘れました。

最後のnote(点=偶然)を書いてから今に至るまで書きたいことや言いたいことがかなりたくさん頭に登場しましたけれど、どれも忘れてしまいました。とはいえ時間が経っても1つの脳みその構造は変わらないかと思うので、書いていれば自然と書きたかったことが書けていることになるかもしれないです。
しかし私は脳内データを印刷するときの媒体のやり取りにかなりの不具合があり、生のデータをそのまま出すことができた試しがない。だから、言いたかったことというタイトルのデータは結局脳内フォルダに無秩序に配置されたまま、そこにしか存在しないものになっています。(たぶん私はこのことを違う言葉で何度も言っている。)
だけど、私にとって言いたいことがしっかりと言えたかどうかとか、しっかりと伝わったかどうかとかは、二の次さんの次で、今のこの出力が楽しいのです。既存のものでできた新しいものが出来上がるのが楽しいのです。ことばを活かしたいわけです。ひゃっほぅ!
だし、その不具合を治すべきだと考えていない。
ノーナイ・ボイスレコーダーは欲しい。好奇心から

僕が普通だと思っていたことが普通じゃなかったり、僕が普通じゃないと思ってたことが普通だったりするということを見つけて、嬉しくなったり寂しくなったりするのをそこそこ繰り返してきた。でも僕は個々の普通という概念に含まれている世界のほんとうの大きさを知らなくて、想像で大きくしたり小さくしたりしているものだから、その嬉しさも寂しさも、全部本当からすれば嘘だし、本当だとすればとりあえずにすぎない。それがある意味は信ぴょう性とはまったく別のところにあるようだなと思った。脳みそはいつも1人。普通に本当はないと思う。みんなが見ている幻のことを普通というのじゃないかと思うから、そう思う。
自分が普通じゃないと思えるようになったのは最近なのです。それは大学という場所に身を置くようになってからです。どうして普通じゃないということにしたかというと、そう思っていた方がより多くの人に許してもらえる気がしたからです。

なにが当たり前で、なにが異例で、特別で、多くて、少なくて、普通なのか、似ていたり反対だったり、関連しているとされることは本来なんのつながりも持たないということになったりもするわけなのだから、あまりに揺れ動きすぎる問題だ。人の数だけ、脳みその数かそれ以上にもっとたくさんその定義は存在するかもしれず、つまり粉々だ。
思うことにするのはある程度理想の形を保って生きるのに必要なことだ。


人に見せるための言動は、人に見せるためだとバレてはいけない!バレるのはものすごくカッコ悪いと思っているから、気をつけている。仕方のないことってカッコ悪く見えてしまうけど、後ろめたさがなければ逆にとてつもなくカッコよくなることができる。つまり「自分の本当」に関する解釈が自分と他人でずれすぎていると、カッコ悪くなっちゃうということかもしれない。2つの解釈を正確に比べることはできないから、感覚の話で、感覚の話は信用してはいけないけど、従うにはそれなりに相応しいと私は思うから、私は楽しくいられる。
しかし、このようなバレるを感じるとき、その感覚を持っているのは私だけである。私が持つ感覚を他人も当たり前に持っていると思っていたのは過去の私だから、私はこのバレるを私の中だけにしまっておいてもなんら問題はないはずなのです。

考えたいことがいろいろある。この世の言葉の数よりもあると思う。全てを考える人になれば、誰かの神様みたいになれるかもしれない。神さまにはなりたくないし、考えたことはすぐ忘れるし、答えがなくて簡潔にメモすることができないから代わりの言葉が溜まってそして なんの代わりだったか忘れる(これは悪くない)。こんなふうに、考えるというのはだいぶコスパが悪いけれど、そのコスパの悪さが生きるということかと思ったら終わりが分からないことに多少頷くことができる。

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