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10人中10人の私

絶対が存在するかどうかなんて、まったくどうでもいいことです。
絶対は存在してるものじゃないです。
絶対は代名詞だからです。
(これがのちの文章でちゃんと回収されているか不安だ)

 今日は最高な日曜日の続き、つまり透明な月曜日だった。学校に行きませんでした。透明な月曜日なりにいろんなことをしました。帰りの電車の中で最高な日曜日に買ったドクタースランプを読んで、家に帰って雑誌を読んだり小説を書いたり音楽を作ったり写真の編集をしたりして、うん、悪くないと思う。

僕は、誰かの絶対になれるだろうかと思いました。
地球がクソヤバいとき誰かを絶対守るって、約束できるだろうか。きっと一緒にいるだろうけど、約束はできないということ。(でもその予想が約束なのかもしれない)
どうしてかというと、僕はそうできる立場じゃないから。そんな資格がないから。情けないか?僕はいつも自分の外側で、それでもいいって思ってる。そんなわけだから。
いつだって敵になれるし、味方の敵は敵とも限らない。

誰のために生きているかなんて、自分じゃ決められないのだと思いました。
世界が人の数だけあるならば。
それをコントロールしちゃう人、コントロールしようとしちゃう人、怖いね。自分を好きになってほしいなんて思って人に接すること、ほど醜いことはほかにないよ。(と、10人中10人の私が言っています。)
ほんとうに相手を好きなら、自分を忘れるか、自分を消したいと思うのが自然だと思う。(と、1人中1人の僕が言っています。)

どうして自分のことをたくさん話すのかといえば、自分を確認するためと、あと、ぼく、わたし、より大きな主語を扱うのはとてもすごく苦いからです。

自他のキョーカイがはっきりしている。だけど意識を言動へ伝達するのがへたくそだから、流されやすいし、誤解されやすい。
ただ、こんなふうに一人で文を書いているときのATフィールドは半端ないぞ。それが話しかけられると簡単に不安定になります。話しかけようとするときもまたおなじ。
超絶相手を意識した上で、様子がおかしくなります。私の中の私が、おいおい、おかしい!と申し立てます。
でもそれは、あるいは、他人にとってはけっこう普通に見えたりするのかもしれないと思います。

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