見出し画像

あれ、自分、生きている意味あるっけ?うーん、ないかも。でも生きていくんだよ。

自分の存在価値のなさを淡々と痛感することがある。

どう考えても自分がこの世に存在することに特に意味はない。価値はない。だれかにとってなくてはならない存在でもない。

それを痛感するとき、私の場合は、いったんずーんと落ち込むけど、あくまでも「淡々と」事実としてこれを受けとめて流してしまうところがある。この世の人間のいくらかは、こんなにも途方もない無力感を抱きつつ、存在価値がないとわかりつつ生きていかねばならないのかあ、とか考えつつ、「しかしなあ、私は死にたくはない。生きていきたい」と生気を取り戻す。

一方で、「私には価値がない」ということばを耳にするとき、それは「生きている意味がない」といった希死念慮とつながっていることも多いように思う。

そうやって苦しむ人がいるのは私としても胸が痛いから提案したい。「自分には存在価値がない。だから、生きている意味がない」と考えるのではなく、「自分には存在価値がない。でも生きている」と考えるのはどうだろう。

肝心なのは、存在価値がなくても楽しむことはできる、ということじゃないかな。自分には存在価値がないと思っていても、楽しむことはできる。だからどうやって楽しく生きられるのか、どうやって価値のない人生を少なくとも自分にとって価値のあるものにできるのかを考えるのはどうだろう。

とはいえ、そう簡単な話じゃないのもわかる。こんなことを書きながらひっくり返すようなことを言うけど、正直、落ち込んでいるときは楽しむとかどうでもよかったりする。

落ち込むのは、なりたい自分や、好きな人から求められている自分と、現状とに大きなギャップがあることを痛感させられるときだ。

だけど、やっぱり、そのギャップにとらわれてしまうと辛い。結果にとらわれると辛いときには、「楽しむ」というプロセスそのものに着目するのはありじゃないかと思っている。根本的な自分の課題に対しては、まず元気になってから考えればいいと思う。前に進む方法はいろいろあるはずだから。

--おわり--

存在価値があるかないかという感覚については、例外はあれども、だれかに愛されている実感を常に感じている人とそうではない人では、差があるよなあと思う。その実感少なめな人間はどうすればいいものなのかな。
あと、意外にも、愛している人に愛されているにもかかわらず、自己肯定感低めな人がいる問題は別にある。これは私にはまだまだ謎が深いのだけど。

花を買って生活に彩りを…