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運命?ステップマザーになった日 〜母の日week

グーテンモルゲン、

Tamamiがお伝えします。

何度かお伝えしていますが、私には5人の子供がいます。

旦那はドイツ人です。

旦那は、私と結婚する前に日本人の方との婚姻歴があり、子供がいました。

私と結婚した当時には、その子供も毎週末私の家に遊びにきていました。

彼女は当初5歳でした。

なんでも自分でできると言い張る彼女は、いつもおしゃれには敏感でフリフリの靴下をはいたり、ミニスカートをはいたりしてました。

将来は皆んなにモデルになれるって言われてるから、なるかも。とか言うマセた女の子でした。

絵とか工作が得意で、よく家にきては、粘土とか折り紙とか絵をかいたり。

すごくよく散らかすんで、時々くる幼稚園生の対応に困った事を覚えています。

彼女のお母さんが私の事を好きではなく、私が作るご飯は食べちゃだめって言われていて、毎回出前を取ったりしていました。

私の家でお風呂に入ると、私のシャンプーの匂いがつくから家に帰って怒られたりしていたそうです。

当時、彼女は私には懐こうとは一切しませんでした。

そんな彼女が九歳の時でした。

家に帰る時間になっても、帰ろうとせず、机の下にもぐり、帰らないと泣きだした事がありました。

夏休みが過ぎた9月の事でした。

九歳だし、少し家でやなことがあったのかな?なんて思っていました。

わかった。今日は泊まっていっていいからさ、明日帰りなって言ったときに、彼女が言った一言がとても真剣で、強い意志だったのを今でも覚えています。

『私はもう、家には帰らない。私はお父さんとタマちゃん達と暮らす。』そう言った日から8年が立とうとしています。

それまで、数えきれない葛藤と大変だった彼女の子育て、その分の数えきれない楽しい思い出がありました。

今では、堂々と私の娘ですって言っていますし、そうだと100パーセントの気持ちで思っています。

今回も、彼女の誕生日のためにドイツに戻ってきました。

話は変わりますが、忘れもしない私が高校を卒業した年。2003年。

その年18歳の私は、3月初旬に卒業を迎え、その卒業式の2日後にカナダに留学することが決まっていた。

初海外っていってもおかしくなて、英語なんてしゃべれなくて。それでも、海外に行くんだ。日本には絶対戻ってなんかこない。世界にでてやるんだって決めたその日、その2003年の3月3日。成田にいた私。

そう、その日は私にとっては革命の日。インディペンデンスデイとも呼んでる日。そんな日に彼女は生まれた。そしてその9年後には、その子の母親になっていた。

私にとっては運命であっただろう、彼女の母親の役。

彼女の本当の母親は、去年突然亡くなった。

その時に一言、「やっぱり私があなたの母親になる運命だったんだねって」言ったら、彼女は『うん、そうだよ。確かに!』って言った。


今回の母の日特集では、一番先に書こうと思ってた、私の親愛なる娘の話を読んでくださって、有難うございました。

私がなぜ頑張るのか。それは、彼女がいるからと言っても過言ではないと思っています。

彼女との関係は血が繋がってることだけではないと経験をもって証明してくれたと思ってます。

私が常に大事にしていることは人間関係です。助けたい、守りたい、でも強くなってもらいたい。そこには、自立させるという目標の元、愛情を注ぐのですが、お互いのいい関係性を作るためには愛情のかけ方が大事だと思っています。

娘は今年で17歳になりました。もうすぐ自立にむけての最終段階に入ってきました。

そこまでの、道のりでの愛は足りなかったかもしれません。それでも、彼女の心の基礎の部分。ここに、愛を注げたことで彼女は立派になってくれると確信をもって言えます。

皆様も、血の繋がり以外の関係性で支えられてる事も多いと思います。長い人生、山あり谷あり。支え合う、それが人。

コメントも受け付けてます。それでは、この辺で。

アウフウィダゼーン




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