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頼まれてもないのに。その37(空騒ぎだらけの今年一年を振り返ってみて)


あっという間に令和3年も終わり。ていうか令和に入ってもう3年経ったんですね。何もかもが早すぎます。

2021年もまた結局コロナに振り回された1年でした。せっかくワクチン打ったのにさっそくワクチンの効きが悪い変異株が出てくるといういたちごっこ。人類の努力が試されているというより、なんていうんですかね、もっとこう、考え方自体に転換が求められているんじゃないかという予感がしてしまいます。

そんな時代背景もあり、生活レベルでは去年と大して変わりない一年ではあったのですが私の内面のほうでは結構大きな変化がありまして、一言で言い表してしまうと。

世の中の動向なんて根っこに横たわっているのは嘘ばっかりなんだから、こんな空騒ぎに一喜一憂してても意味ないな。

今年1年、たった1年で他者への期待とか幻想みたいなものがばっさりいっちゃった、という感じですかね。

そんな一年でした。

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まずはオリンピック。スポーツ観戦大好きな私がスポーツというものに対し心底から幻滅した出来事。

スポーツの存在意義、それ自体が汚されたと。しかも悲しいことに、あろうことかオリンピックという、スポーツの理念の象徴そのもののイベントによって。

開催するまで揉めに揉め、いざ始まってしまえばみな大騒ぎ大喜び。その手のひら返しにもうんざりでした。私は心が美しくないので「アスリートたちが夢を奪われるのはかわいそう」の前に「今、社会が、世界全体がどういうことになってるかちゃんと見てくれよ」と呆れていたのです。

アスリートさんだって仕事なんだ、自分でどうこう決められる立場にない弱い人たちなんだ、と割り切るまでに相当時間がかかりました。その点では様々に大人の口実を設けて「オリンピック今回は行きません」と宣言したアスリートたちの決意に心から敬意を表したいです。4年に1度という大事なチャンスと世界情勢とを天秤にかけ、大人の意思決定をした人たち。無念だったと思います。

私だってバカじゃないので4年に1度というのがどれほど貴重なことかわかります。それでも「こんなオリンピックの精神もなにもない状況下で、アスリートが参加することの意義とは何か、本当に皆が、なにより自分自身が楽しめるのか」を悩み決断をした方々の判断は素晴らしかったと思います。

でもそういう人たちはごく少数。大半が「4年に1度の機会を逃したくない」という思いを優先したし、人々もまた「そんなことどうでもいいじゃない。私たちには関係ないんだからやりたきゃやれば」と知らんぷり。

難しいことを考えすぎると、突き詰めすぎると、人の夢を潰す悪者になっちゃうんだもんな。私は今年、悪者だったよね。

あああ気づかされちゃった。よく考えたらスポーツって興行でしかないんだった。私たちは彼らに楽しませてもらうだけの身だし、彼らはそれで生計を立てているだけの話。スポーツとは何か、自分の存在がいったい今何に利用されているのか、彼らにそんな二者択一を迫ること自体が非人道的。何がスポーツの力だ、なんて言ってはいけません。引き続き共同幻想を持ち続けなければ。さあこれからも彼らに感動し、彼らにどんどんお金を落とそう。

そんな中WTAの毅然とした態度は感動的でした。あれこそがスポーツの精神だよ。お金は大事、興行は大事、だけど理念はもっと大事。

ただこれはねえ敵にした相手があまりに悪いのでこの先「やっぱりごめんなさい興行させてください」ってなるかもしれないけど、そうなっても私は仕方ないと思っています。こんな怖い相手によくケンカを売ったものだというのが正直な感想ですので。

当然冬のオリンピックに対しては無視を決め込みたいところですが、内定が次々と決まっていき大喜びされている皆様に対しどういう気持ちを向けたらいいものか。本当につらい。一人とて嫌いになりたくないんだよ。だけどなんでそこまであっけらかんとしてられるんだ。君たちの活躍が何に利用されているのかちゃんとわかってんのか。

アスリートたちを嫌いになりたくなかったら、これ以上悪者になりたくなかったら、情けないかな、見て見ぬふりをするしかありません。

嘆息。

スポーツって国家のメンツやお金持ちのさらなる荒稼ぎの手段として利用され続けないと存続できない、そんな情けないものだっただなと。そんなふうに考えたくなくても見せつけられてるんですから仕方ないです。

アスリートと私たちの見ている方向が同じであり、またスポーツの精神を理解し心から愛する人々が支えていかない限りスポーツは自立し続けられないということであり、一人一人のアスリートに誇りある人格を与えられるのはそれらが保証された環境下のみだということ。それがわかっただけでも意義のある一年でした。

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衆議院選挙。

選挙が終わるたび「意識高い皆様が扇動してやまない選挙に対する幻想」が一つ一つはげ落ちていきます。ダメな議員は選挙で落とそう、人や党ではなく政策で判断しよう、そして、この一票で国民の民意を示そう。

無理です無理。全部無理。できません。

落選してる議員たちって全部が全部ではないかもですが、身内に愛想尽かされてるかまともに選挙運動してもらえなくなって票を失ってる人たちばっかりですやん。当落を左右しているのは組織票、それだけじゃないの。

今回も与党が勝ちましたがだからって与党に入れた人たち皆が皆増税に賛成してます?してないよね。それ以外の考えがあるから増税には反対だけど与党に投票してるだけなのを「党の方針に支持が得られた。消費税は下げないし隙あらば様々な手段を講じて増税だ」とやられても困るんです。

だいたい純粋に政策で選ぶとしたら、というより「金くれよもっとくれよ」だけで選べばそりゃ野党一択でしょうよ。でもその他の政策はどうなのよ。お金配ってくれるとしてもあとは方針ボロボロな党に任せられる?そもそもその政策、ほんとうに守ってくれるのかよ。

私はもう「選挙に行くのは趣味」だと割り切っています。趣味だけれど、国民であるというだけで無条件に与えてもらっている小さな責任に報いるべく、これでも一応最低限の知識は仕入れているつもりです。

しかしほんと来年の参院選はなあ。ほんとに選挙でしかNoを突き付けられないのかな。選挙を使って彼らに据えたいお灸は、私たちにも何倍にもなって帰ってくるんだよね。

政治に影響を与えるために、私たちに与えられている本当に有効な方法は何か、どうしたら私たちの細かな民意が適切に反映されるのか、を真剣に考えないといけない時期に入ったと思います。

あとさもうみんな薄々気づいてるよね。今現在日本の方針決めてるの、残念ながら選挙の洗礼絶対に受けない人たちだってこと。そうなってしまった根本原因についてもちゃんと振り返らなきゃいけないんじゃないのかね。

やってきたことの責任を取らないのは政治家だけじゃないです。国民もなんだよなあ。結局のところ政治家は私たちの鏡なんだよね。

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マイナンバーカードと技術革新。

これ縦割り行政の解消に使われるものだとばかり勝手に思い込んでたけど、なんで私らが持ってる個人の情報一括管理を目指しましょうみたいになってしまってるの。おかしいでしょ。お役所それぞれに散らばってる情報がこの番号一つで引き出せればそれだけで十分なのに。どうしてよ。

これに限らずある時点から技術革新全般が私たちの生活を豊かにするものではなく、私たちの生活を一元管理する薄気味悪いものへと変容していってるのはなんなんでしょ。

私の見るところスマホの出現が分岐点だったんじゃないかと。あそこから何かががらりと変わった感じ。

この新しもの好きの私が、なぜかスマホには手を出したいと一切思わなかったもんなあ。ん、どうやらこいつは厄介な代物だぞと。タブレットは持ってますけどね、便利だねタブレット。

キャッシュレスもFelicaが出てきた時は感動したもんなあ。とくにSuica。大きなお金の出費だけをその都度しておけばよく、細かい出費をいちいち確認しなくて済むようになったのはとても便利でした(ちなみに今はキャッシュレス出費も一円単位で管理してますけども)。

ところがコード決済。これ何。スマホ必須の上、お会計のたびにアプリを立ち上げねばならない面倒くささ。案の定もたもたしてる人未だにお見掛けします。小銭で支払ったほうが早い。Felicaの優秀さがあらためて浮き彫りになりましたなとたかをくくっていたら、なんたることか国や自治体がこぞって推進するのはコード決済。コード決済業者によってはびっくりする還元率。同じキャッシュレスなのに不公平の極みじゃないの。ていうか特定業者と自治体が提携して推進してもいいものなのこれ。公平な競争の妨害じゃないのか。

要するにスマホと紐づけたいんでしょうかね。Felicaだとカード内完結だけど(そんなこともないけど)スマホならやる気さえあれば(悪意ともいう)スマホ内の情報と買い物情報の双方を吸い上げることができるから?まあ普通の発想の人はそんなことやんないよ。やっても意味ないし興味ないから。でもたぶん今の技術なら、その気さえあれば可能だよね。

マイナンバーカードも、なんていうの、私たちの便利さの可能性をさらに追求するというよりも、情報を握れる人たちがあれもこれも一元化して把握しておきたい、という管理欲、もっと言えば統治欲みたいなものを感じるんですよね。

私たちのためになる技術革新などとっくの昔に終わりを告げ、金儲け層と支配者層だけに都合の良い、これまでは「実現できたらいいのになあ」レベルでしかなかった彼らの危険な欲望を本当に実現できてしまう技術革新へとあからさまに移行してしまったんじゃないのと、かなりうすら寒い思いをしております。

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SDGs。

もう大嫌いこの言葉。ここんところ負け続きのヨーロッパ人が起死回生の案として考え出した新たなビジネスチャンスでしょこんなの。本気で「持続可能な社会」を目指すってんなら、日本人(ただし民間人に限る)のやってきたことやその精神を見習えばいいのに。日本人の伝統的な暮らしぶりから学ぶべきだし、むしろ日本人をリーダーに据えなさいよと。

持続可能な社会を今もなお継続できており、かつ一人一人が実践している率が高いという観点からすると現在進行形で成功している数少ない国の一つだと思うんですけど日本は。

一神教の人たちはなんでもかんでも「唯一絶対の正義」とそれ以外に分けたがりますが、日本人は違うよ八百万の神様の国だからね。自然にも動物にも植物にも、あろうことか長く使ってる持ち物にも神様宿るんだぜ。てか祖先が大事な神様仏様でございますしつまりは我々もまた死後は神様仏様になることがすでに決まっているんでございますよ。

つまり私たち日本人ってのはDNAからして「あなたも私も同等にすばらしい」が練りこまれていると言っても過言ではなかろう民族なんです。そりゃ好き嫌いはありますよ。あるけどね、ほら、村八分っていうと八分のほうの排除ばかりがクローズアップされがちですけど、考えてもみてよ、その他の2分、つまり火事と葬式だけは気の毒だからさすがに面倒みてやるって民族ですよ、すごくない?

すべてを同等に扱えるってことは自然に対してもずっとそうだったということ。畏敬の念で自然と向き合い、技術によって開発し克服してきた部分も全くないとはいいませんが、うまく共存しともに生きることを選択してきた歴史があるのです。

ヨーロッパなんてひたすら異教徒異民族の殺戮の歴史繰り返してきた民族のくせに。だいたい欲望のままあちこちの自然破壊してきたのは君たちでしょうが。自分たち以外を見習いなさいよ。

だからあんなの「地球のため」も「人類のため」も本当はほとんど考えてなくて、相変わらず「絶対唯一の正義」を錦の御旗にし自分たちだけに都合の良い理想社会でのリーダーに返り咲きしようとしている人たちのやってる、過去から一切変わりばえしないことなんですから本気に取らなくていいはずなんですけどね。

てか持続可能な社会について考えれば考えるほど、あれ日本人これもともとやってるよね、っていうことばかりだもんなあ。昔の私たち(良い部分だけね)を取り戻せばいいんですよ。

環境とのお付き合いをバランスよく。節度を持って暮らすこと。今の経済システムや流通システム、環境とのかかわり方には大きな問題があると思うけれどそれによって救われ豊かになった多くの人たちの存在もちゃんとわかっていないと地球環境の代わりに大勢の彼らを見殺しにしかねないわけでね。ただ改善しなければならないのも確かなので、変えるとしてもゆっくり、少しずつね。

早く廃れないかなあこの概念。無理だろうね。相当ビジネス的においしいのか、すでにあまりにたくさんの人たちが乗っかっちゃってるんだもんな。おかしなことやってるなと内心舌打ちしながらも表面的に合わせていくしかないのかね。情けないね。

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まあそんなこんなでとりとめもなく書いてみましたが。

これらのことを通して今年心から思ったこと。

日本国民とは消費者でしかないんだなと。もしくは単なる頭数。選挙だの世論調査だの。

経済的な豊かさや伝統に囚われなくてもいいという風潮の広がりのおかげで家族や地域のくびきから逃れられたのはいいことだけれど、結局は消費社会のくびき、それらをまとめる国家のくびきにつなぎなおされただけ。私たちは一時の快楽と安心と引き換えにお金を際限なく支出し、そのためにこそ大量のお金を稼がなければならなくなりました。

そう、自分に必要な額ではなく。

誰かから常に求められている額を。大いに消費して経済を回してもらうための額を。

際限なくお金を欲しがっている人たちと彼らの稼ぎによって支えられている国家の存続のため、彼らが必要としている額を一人一人が稼がなければならなくなっています。稼いでも稼いでも追いつかないほどの。

彼らが私たちに求めているものは「消費すること」だけではありません。今回の選挙に際し私が痛感したように彼らが欲しいものは「私たち一人一人の意見」ではなく「彼らの考え方に同意する大量の支持者」でしかないのであって、私たちが具体的にどう考えていようが、ここは同意だけれどここは意見を異にするとか、そういったものはどうでもよいどころかむしろノイズ、とにかく黙って支持さえしてくれればいいという。

だからはっきりいって私たちには教養なんてちっとも必要とされていません。私たちに必要とされているのは様々な欲望を抑えこまないことこそが美徳であるという思い込みと、多少つじつまがあわなかったとしても彼らの話を鵜呑みにしてくれる物わかりのよさ。教養があってはどちらもできない。

でも大学には行ってもらいたがる。借金をさせてまでも。大学経営者たちにお金を回すため。そして大学で学んでもらいたいのは小手先の技術だけ。だから受験科目もそうなっていく。会話重視の英語だのプログラミングだの。自分の頭で情報を集め分析し中身を深める教養人なんて必要としてません。しかも残念なことに短期的な見返りの見込めない高度な技術者すら必要としていない。安くて今すぐ気軽に使えるそこそこの労働者。だったら大学でなくてもよくね?なのに大学に行かせようとする。今ある大学がつぶれちゃうと困るから。なんだそれは。

今の日本は未来に向かう指針の根っこにあるべき価値観がむちゃくちゃ。根っこがむちゃくちゃなもんだから次から次へと繰り出してくる政策もことごとく上っ面でその場しのぎのものばかり。

そんな中で少子化を食い止めましょうと。無理でしょう。経済的な下降がどうこうだけではないと思ってます。日本社会の雰囲気自体がおかしいもん。このままでは日本が先細るから未来の日本のために産めと? おかしいでしょう。家族の存続のために、その結果として地域を支えるために、もっと言えば本能的なものとして自発的に産むもんでしょう。そんな下心がありありだから産む気になれないんじゃないの。

日本の方針がそうしちゃったんですよ。子どもを産むことに消費者の再生産以外の意味を失わせたのだから。

ああそうかあ育てるの大変だよね、じゃあその負担はどんどん外注してくださいね、じゃないんですよ。育児、教育、子どもたちと過ごす時間まで積極的に奪っていった先に何が残るんですか。

というより子どもたちにとって家族ってなに?お財布?食堂?ホテル?

そのくせ家族の絆って。

共産主義的な社会を目指すならこの方針でいいんですがそこに家族の絆は一切ないと思いますがね。

みんな内心では共産主義がいいんだろうな。一人一人の欲望を全肯定してくれるのが実は共産主義なんだから。

弱くていい、できなくていい、あなたはありのままでいいんだから。そのままのあなたを国家が守ってあげるから。さあなんでも望みを言いなさい。

思考も価値観もすべて国家に託し、国家が考える理想の国民の型に従って発言し行動する。大人になっても学校教育文化の枠組みが大好き、先生と生徒の関係でいつまでも指導されていたい、頭でっかちの夢見続ける子どもにされてしまった人々にとってはそのほうが心地良い環境かもしれません。

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こういった暗い未来を予測するのは絶望したいからではありません。そうならないための道を模索するためです。

トレンドに対する小さな違和感を無視しないこと。違和感がキャッチした欺瞞を見抜くことが打開策のカギであると信じています。ただし欺瞞を見抜くことはやり方を間違えれば誰かの心や生き方を傷つけることになるかもしれません。そこだけは慎重に。

もともと私たちの中になかったような珍奇な概念や価値観に振り回されないこと。同時に私たちがもともと持っていたはずの健全な価値観を思い出すこと。最終的には「あなたの」目ではなく「私の」目で物事を見ること。

つまりは私たちが「日本人であること」を取り戻すことではないかなと。

国家に協力はするけれど一方的に利用されることからは身を守ること。家族や地域あっての自分自身であり、特定企業や国、ましてや世界や地球などといった大きすぎる理念のための自分自身ではないこと。立志を目指すのでない限り身の丈を失わない自制心があったほうがいいし、人のためになりたいという思いは立派だけれど手の届く範囲にとどめておく謙虚さも持ち合わせていたほうがいいようにも思います。

私にできることを精一杯行い、できないことは控える。今の日本はその逆ばかりに思われます。できることはやらず、できないことばかりやろうとする。あべこべにねじれてしまった一人一人の価値観が本来のものに戻ったとき日本はおのずとまた常識的な歩みを取り戻してくれるのではないかと淡い期待を抱いたりします。

少しずつ軌道修正されていくといいな。


武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。