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頼まれてもないのに。その9(「学びの場」からいったん距離をおくことで)


「当たり前だったことが当たり前じゃなくなった」ことで、初めて見えてくることがあると思います。

本当はそんなことが起きなくても、本を読んだり映画を見たり様々な境遇にある人たちの話を聞いたりすることで、想像力を駆使して「私たちが今当たり前にできていることがいかに奇跡的なことか」を日々実感できればよいのですが、私たち、なかなかそこまで賢くできていないようです。

「当たり前だったことが当たり前にできなくなった」

私たちはすぐ「かわいそう」と言い、どうしてさせてもらえないのかと批判と愚痴を口にしますが、もしかするとそれはまったく「かわいそう」なことではなく、できない状態がむしろ当たり前、今までがとてつもなく恵まれた環境にあっただけであって、

「当たり前でないことがまるで当たり前のようにできていたこれまで」

の奇跡を作り上げてきてくれた先人たちの工夫と努力、それをいついかなる時にも継続できるよう労を重ねてくださっていた多くの周りの人たちにこそ、いまこそ感謝しなければならない時に来ているのではないでしょうか。

と同時に。

「なぜ、それをしなければならないのか」

という、もともとのきっかけについて立ち止まって問い直し、襟を正す時期が来たのかもしれない、と思ったりします。


学校の休校。

「なぜ学校に行くのか」「なぜ勉強するのか」

学校が休校になったことで救われた子どもたちも、正直、いるでしょう。逆に、学校が休校になったことで「逃げ場」がなくなり追い詰められている子どもたちも、少なからずいると思っています。

そこまで深刻じゃなくても、勉強から解放されてほっとしている子、勉強できないことに不安を覚えている子、勉強なんて別にどっちでもいいけど友達と会えないのは面白くないと感じている子、ひとりでいるのも悪くないなと思っている子、いろいろだと思います。もしかしたら「勉強よりもやりたいこと」「学校よりも好きなこと」をこの機会に見つけちゃった子もいるかも……

学校って、小中なら9年間、高校入れたら12年間、それだけの時間、無数の大人たちが黙ってお金を出し合い、あなたが誰であれ分け隔てなく勉強させてくれる場なのです。そして12年間、子どもの頃は長いと思うかもしれませんが、成人してしまえば12年間なんてあっという間なんです。とてもとても貴重な12年間。

その貴重な12年間のうち数か月分を、今回失っています。

この失われた数か月に対し、今ひとりひとりの子どもたちが感じていることを、私は大事にしてほしいなと思ったりするのです。それがどんな思いであろうとも、周囲の大人にもらしたら怒られるかもしれないことでも、友達に話したら笑われ浮いてしまうかもしれないことでも、今この状態におかれて思った感じたことが、それぞれの子どもたちの今後にとって、本質になっていくと思います。

学校に提出して評価を受ける作文ではないのだから、どうかひとりひとり、じぶんの心に正直に。

学校に通えるのは、決して当たり前じゃない。でも学校に通うことだけが人としての目的でも、ましてや目標でもない。

なのになぜ?

これから少しずつ学校は再開されていくでしょう。その時、あなたたちに与えられている限定された時間と機会を、より充実したものとして後悔なく過ごせますように。

どうか周りの価値観や「当たり前」に流されず、アクシデントに振り回されるかわいそうな被害者としてではなく、今後どのような境遇におかれてもご自身の人生の開拓者として、考え、選び、歩いていくきっかけとなりますように。

くりかえし言います。「これこそが当たり前の世界だったかもしれない」と。



武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。