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頼まれてもないのに。その25(みんなと同じことを言わないほうが怖い)


この記事を書くのは個人的にはとても怖いことだと思いながら書いています。

いろいろ考えたけど、やはり私は、スポーツに主義主張を持ち込むのはやめたほうがいい、そう思いました。

なんでそう思ったかというと、もし私の好きなスポーツで「それ」をやられることを想像したら、思っていた以上にとんでもなく嫌だったから。

そしてなぜそこまでに生理的な嫌悪感を感じたのか、それを自己分析してみようと思ったのです。

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スポーツというものがなぜここまでに人々を魅了し励ましとなるのかと考えた時、もともとの出自や家族構成、肌の色といった私たちを縛るありとあらゆる社会的な属性から解き放たれ、生まれ持ちかつ後天的に鍛え上げてきた運動能力というただ一つの属性、それのみを基準に平等に争われる場であるからこそ、私たちは純粋に応援し、悔しがり、喜べるのだと思うのです。

もちろん自分と同じ属性、つまり国籍であったり出身地であったり似たような境遇の持ち主であったり、そういった数々の類似性から個別のプレーヤーに共感し応援する、ということは往々にしてあると思いますが、ファン心理というものはそれだけで構成されていないと思っています。

どのスポーツを見ていても思うことですがコアなファンというものは「パフォーマンスの素晴らしさ」を熱く語ります。プレーヤー自身が素晴らしいのではなく、そのパフォーマンスに到達したプレーヤーについて語り、称賛するのです。

高度に研ぎ澄まされたパフォーマンスの前では、生まれ持った社会的属性なんてふっとびます。よくぞここまで鍛え上げた!よくぞここまで技能を高めた!その精神力と努力、いかほどのものだろう!

パフォ―マンスだけが評価される世界の、このえもいわれぬ高揚感!

この世にはびこる社会的な差別のくだらなさを、頭ではなく、心と体で感じる瞬間です。

能力だけが純粋に評価される場が存在していて、そこにこんなに面白く素晴らしいものが広がっているのなら、こっちの世界を見ているほうがずっと楽しい。

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ただ、スポーツが完全に差別から無縁かと言うと、そんなことはないのもわかっています。

卑劣に思われるパフォーマンスを行った相手に対し、批判と称しながらも元々の属性をあげつらっただけの中傷が含まれていることが少なからずあります。

応援というのは理性で行うものではなく人の心の問題だから、多少の事態については排除しきれないものだと割り切るしかないと思っています。ただあまりにも度を越え明らかに相手を傷つけるものに対しては「それは違う」「そこまで言うのはさすがに差別だ」と声をあげなければならないと思っています。

差別の問題の根強さについてはスポーツを見ているとやはり実感として気づかざるを得ません。逆にその根深さゆえ、実は単なる実力の問題でしかないことであっても差別が根底にあると一律に理由づけされかねない怖さもあります。

そうはいっても最終的には能力こそが結果を生むのがスポーツ。

結果がすべての世界ですから、外野による多少の差別には屈しない強さがあると、安心し信じきっている部分が大いにあります。

だからスポーツそれ自体が汚されることはめったにないはずだと思っています。問題は観客としての我々です。

私たちは何を応援しているのか。パフォーマンスを愛すると称しながら実は己のナショナリズムや正義感をスポーツを介して確かめているだけではないか。

不自然でおかしな熱狂が起こったときには足を止め今一度見つめなおしたほうがいいのかもしれません。

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己の能力によってすべてをねじふせることが可能なのが、スポーツ。

そこには人格の良しあしも主義主張の左右も関係ありません。そのプレーヤーがどんな人であろうが、そのイベントで最も高いパフォーマンスを示したという事実、それだけが評価されますし、そうでなければならないと思っています。

違反薬物等、パフォーマンスに直結するズルだけは許されてはいけませんが。

「あの人はこんなことを普段から言っているから評価できない」それは勝手に個々人で思っていればいいこと。スポーツの評価に持ち込まないでほしいと思います。評価基準の違うものを持ち込むなと。

そう思っているからこそ、「じゃあスポーツの場に主義主張を持ち込みパフォーマンスの一環として披露するのはどうなんだ」と思うのです。

スポーツの能力のみを争う場に主義主張のパフォーマンスを持ち込むことは、本来能力だけを評価基準にすべき場に、全く違う価値基準を持ち込むことになりはしないか。

はっきり言うと、その能力によって人より目立つことのできる己の優位性を利用し、スポーツの能力には関係のない価値基準を衆目の集まるスポーツの場にまで「ただのり」させてしまうのは、本当に望ましいことなのか。

他の人たちが簡単には持ちえない、実力だけで得た知名度の高さを十分に生かし、世界に向けてどうしても言わなければならないことがあるから主張する、それは構わないと思います。それは個人の自由だし、その知名度を最大限に利用するのは、むしろ妥当。

だけどスポーツという場にそれを持ち込むのは。

主義主張が正しければ、主義主張がみんなに支持されているのならば、やっていいの?

内容次第で許されるというのなら、それこそ「ウイグル問題」「チベット問題」そして「内モンゴル問題」など、もっともっと広く知ってもらい、私たち一人一人が意識しなければならない人権問題があるんだけれど、それらを皆が目にするスポーツの場でアピールしてもいいかというと、やはり違うと思うのです。

そもそも、みんながすでに正しいと思い支持しているものをさらに重ねてアピールすることの意味って、なに?

これからまだまだ世の中は二転三転するでしょう。でもどんなことがあろうとスポーツだけは政治的なもの社会的なものの影響を受けることなく、いつだってプレーヤーのパフォーマンスだけを純粋に楽しみ、熱狂できる場として守られていてほしいと願うのです。

その上で、実力の結果として得た知名度をスポーツ以外の場でどのように使おうが、その内容に好き嫌いを言うのはともかくその行動に文句を言うのはお門違いなことだと思うのです。

武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。