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頼まれてもないのに。その12(計算と偶然と)


いつもの散歩道に今年もあじさいが咲きました。写真におさめてパソコンにとりこんでフィルタをかけ、こうしてnoteにアップロードします。

この「頼まれてもないのに。」にも一応少しばかりの決めごとがあって、そのうちの一つが「画像は自分で作ったものをアップする」です。

実は文章を書くよりもこちらのほうがプレッシャーになっていたりします。今週の画像の準備できてない、どうしよう……と。

今週のように写真加工のときもあれば、一から描いているときもあります。タブレットなどあろうはずもないので、マウスで感覚的に描いています。

画像加工ソフトもドローイングソフトも全く使いこなせていないので、直感的にわかる機能だけ試行錯誤で使いながらなんとかやっています。

なんせ、こういうものを表現したい、とかこういう作品にしたい、と思って描いているわけではないですし、絵の技法も義務教育で会得したレベルなので(つまり、ないというに等しい)、遠近法だの色の組み合わせだの、もうでたらめです。

ということで「頼まれてもないのに。」の画像はすべて偶然の産物です。今回の画像も左端になんか見えちゃいけなさげなものが見えてますが、ほんとたまたまです。わーいわーい(怖)。


こうして毎週うんうん苦悩しながら(なぜそこまでして……)絵を描いているうちにいつの間にか、画材店などで売られているポスターに対する視点が変わっているのに気づきました。

売り物になっている絵というのは、ちゃんと『描きたいもの』を選んで描いてる絵なんだ、と。絵に主張がある。主張があるからその配置や色彩に見通しがあるし計算もある。

つまり、ちゃんとデザインされている、ということ。

あああ、いいなあ、こういうの描けるようになりたいなあ。偶然の出来不出来に頼るのではなく、己の中に表現したいものを一つ定めて、そこに向かって効果的な表現を施していく。つまりはトップダウン。

でも、できないんだなあ。絶望的にできないのだ、私。本質的に無理なのです。

私は「外に」答えを持ってる。外にあるもの、なんとなくかき集められたもの、その中に答えを積み上げていく。文章だってそう。いつだってそう。思い起こせばすべてがそうだったんだもの。ボトムアップ。

ボトムアップな人間は自己主張が弱い、というより、自己主張を軸にして人生を組み立てることがそもそも不得手なのです。配られている手札の中、どう生きていくかを偶然に任せ、乗っかっていく。だからその気になれば社会のどこでも生きていくことはできるんだけど、社会を己から選ぶことができないので、一度つまずいて社会の外に出てしまうと、もう一度戻ることがとても難しい。戻るためのモチベーションが乏しい、どころか、「ない」から。


note等で注目されている人を見ていても思いますが、今の時代成功している(名声を得てお金を稼いでいる)人というのは、トップダウンのタイプ、つまり己のやりたいことが明確に見えており、計算に基づいて人生をデザインできる人だと思っています。

私のようなボトムアップな人間、外に己の使命を見出さないと生きていけないタイプの人間は、……いや、本来、ものをつくる、ということの動機は、「外」になければいけない、と思っていますが……偶然が訪れない限り、常に途方に暮れ、ただなすすべもなくこのまま朽ちていくのかな……と暗い気持ちに陥ったりします。特に今日のような雨続きの昼下がりには。



武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。