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頼まれてもないのに。その11(無関心という誠実)


最近とみに思うこと。

どうして「進歩的」な人たちは「意見を示すこと」を強いてくるんだろうか、と。

そしてそれは往々にして「進歩的」な人たちの考える「正義」を支持することへの同調圧力だったりする。

「意見を示せ」と言いながら彼らがそこに求めているのは決して「私自身の意見」ではない。「彼らの考える正義を私の口で語らせること」に大きな意味があるだけなのだ。

あなたはあなたの意見を表明すればいい。そしてそれに賛同する人は賛同すればいい。

だけど、なぜあなたがたは「あなたの考える正義」と異なる意見を、頭ごなしに否定し、攻撃するのか。時には発言の機会すら奪おうとするのか。

私は思う。

「全貌がよくわからないものに対し、私は意見も態度も保留し、表明しません」

無関心の表明である。いや、本当の意味での無関心ではない。たぶん、装っているだけなのだ、無関心を。関心は、ある。気にしないでいられるわけがない。

ただ私は、あなたがたの駒になりたくないだけなのだ。

あなたがたの代弁者になりたくないだけなのだ。

「一方聞いて沙汰するな」という戒めの言葉が日本にはある。どの立場の人たちにも言い分はある。誰かの味方をするということは、誰かの敵になるということだ。誰かを守るということは、誰かを傷つけるということだ。

よくわかってもいないのに、私にはそんなこと、無責任にできない。

それこそ今問題になっている「ネットリンチ」と何が違うというのだろう。

人として生まれた以上、常に抱えているイライラのはけ口、やり場のない攻撃性を、どこに向けて発散するかは、個々人それぞれにとって一生の課題だと思っている。己から湧き起る攻撃性との共存、それは逃れられない宿痾だから。

そのイライラを発散するのに格好の錦の御旗があり、それが「正義」なのだということに、多くの人たちがおそらくもう気づき始めているように思う。

そしてそれこそ正しく「正義」に加担してきたつもりが、なぜか全く世の中が良くならない、いやむしろ前より悪くなっていないだろうか……と疑問に思う人たちが増加したからこその、世界的な「ナショナリズム傾向」なのではないかとすら思う。

私は思う。

よくわからなかったら「わからない」でいいと思う。

「わからないから、今は何もしない」でいいと思う。

もちろん絶対に行動を起こさなければならない時がある。大事な誰かが傷つけられたとき、これは絶対にアクションを起こさなければ人間じゃないと思う。

だけど、どれほどの大義名分が与えられていたとしても「攻撃」であり「人を傷つける行為である」ことには違いはないのだから、その判断は自分でしなければならないし、アクションを起こしたことによる結果への責任はちゃんと取らなければならない。というより、好む好まないにかかわらず取らされることになるはず。

逆を言えば、誰かが言っていたから私も、であったり、そうしないと人から悪い人に思われるから、という程度の動機であればそれは「誰か」の駒として動いているだけだし(悲しいかな、共同体から排除されないためにそうせざるを得ない場合も時にはあるけれど……)、ましてやアクションの結果に対して何の責任も問われないのであれば、それは本来「私」にはまったく関係のない事柄であり「安易に手を貸してはいけない案件」とすら言えないだろうか。

形を変え折に触れ私の心をかき乱す攻撃性、これ本当に厄介なものだけれど、私の大切な誰かを守るためにはこれほど効果的で心強く、必要不可欠なものはないとも思っている。だからこそ不用意に振り回してはいけないものだと思っているし、ましてや他人にその主導権を握られるなどといったことがあってはならないと身構えている。

もうみんな気づいているはず。

「正義」を掲げる人たちほど信用ならない人たちはいないと。「正義」を掲げる人たちこそが、一方的に「悪」のレッテル貼りをされた人たちを傷つけ時に殺すということを。

そう、私たちは本当の意味でけっして「無関心」なのではない。

だけど「無関心」という体を装って中立の立場から見守るということ、「正義」の仮面の下に隠されているものに誤って加担しないという個人的な責任感を貫くこと、そういう姿勢のありかたはもっと評価されてもいいと思う。




武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。