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頼まれてもないのに。その14(成果と代償)


スナック菓子の暴走が止まらない。

原因は分かっている。今週から毎日noteを更新しているから。30分くらいで軽く書きあがりそうな身近な内容と分量でと新たなマガジンを始めたものの、この400字~800字を書くのに私の性格上30分で終わるはずがなく、ましてや書き終えた瞬間から明日書くネタを探し始めているものだから頭の休まる暇がない。こうなると昔からの習慣でスナック菓子に手を出してしまう。際限なくバリバリと顎を動かし続け、時に口の中を傷つけてでも刹那なストレス解消をついつい求めてしまうのである。

まあ何かを始めるということは、それなりの代償もまた必ずつきまとう、ということだろう。

最近、この「代償」というものについて、とりわけ「インターネット上で表現すること」との関連において思いを巡らせることが多くなる。

インターネット上で表現をする、ということは、「インターネット上に自らの過去を残す」ということでもある。何もしなければそのまま雲散霧消したはずの記憶や感情が、それを目にした人たちの共有記憶として、さらに極端な場合には永久にインターネット上に残ってしまうということだ。

今、多くの著名人が、過去に発した言葉(過去のメディア発言を第三者によって書き起こしされたものも含む)をことあるごとに掘り返され、非難されている。中にはすでに修正、謝罪済みのものもあると思うのだけれど。

現在の取り繕った姿だけではなく、過去にどんな発言をしどんなことを考えていたのかを知ることは、表面的な言動に騙されないためにも大事なことだと思う一方、ふとした失言、差別的言葉遣い、見当違いの感想をいついつまでも忘れてもらえず批判材料として持ち出されるのは、確かに過去におけるその人の紛れもない姿だと思うけれども、反省済みの過去まで批判ありきのためだけにゾンビのごとく持ち出されるのはたまったものではないだろう、と思うのだ。

そしてこれは、私たち無名の一般人ですら、対岸の火事ではない。

インターネットに足を踏み入れ、己の考えを自由に表現できる場にいる以上、私たち無名の一般人も、著名人も、置かれている立場は同じだ。むしろ私たちなんてかばってくれる何の後ろ盾もなく、その表現でご飯を食べられているわけでもなく、なのに背負うべき責任は著名人と本質的にはそれほど変わらないのだから、むしろ損なのではと思っているくらいだ。

著名人との違いは影響力の違いくらいであって、表現そのものに対する責任が軽くなるわけではないと思っている。軽くなるのではなく「お目こぼしがある」というだけのこと。幼児がちょっとくらい悪さをしても大半の大人は怒らないのと同じだと、心しておいたほうがいい。そして、たぶんだが、私たちが知らないだけで決して著名人たちは「言いっぱなし」だけで済んでないと思う。

表現は、楽しい。表現に好意的な反応が届くと嬉しい(いつもスキしてくれる皆様、本当にありがとうございます。喜んでます)。ただその楽しさだけを求めて表現を続けられるわけもなく、何の気なしに書き上げてしまったたった一つの記事が今後一生ついてまわるデジタルタトゥーと化すこともありうると思うと本当に怖く、こんな何の見返りもないことをわざわざ続けないほうがいいと尻ごみすることもある。

インターネット上でひとつでも文字を打ったその時から私たちはもう「匿名の免責者」ではない。私がこれまで「裁いてきた」ように、私もまたいつか見知らぬ誰かに「裁かれる」かもしれない。だけど表現するということは多かれ少なかれそういうことだと思う。

「ふたつよいことさてないものよ」

河合隼雄先生の著書『こころの処方箋』に書かれていた言葉を思い出す。

とはいえ表現していて今のところ「いいこと」がとりたててないので、このままの状況が続く限り悪いこともまあないだろう、と自虐的にたかをくくっていたりもする。




武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。