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レビューとしては使えない私の読書録 その1(『サラ金の歴史』小島庸平著・中公新書)

<本の基本情報>
 サラ金の歴史 消費者金融と日本社会
 小島庸平
 2021年 中公新書

<私の評価>
☆お気に入り度(1-5)   4  
☆おすすめ度(1-5)    5
☆とくに誰に読んでもらいたい?   
 高校生~大学生 社会に出る前の若い人たちへ
☆本の印象          
 中公新書にしては易しめ 読みやすい 中立 客観 データ重視

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 この企画(「レビューとしては使えない私の読書録」)を始めたいという強いモチベーションとなった本。
 初回なのでどういう点をテンプレートとして共通させていくかを探り探り、このnoteを作っていきたいと思います。

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<今回のテーマ>
 サラ金の隆盛の歴史に見た
 人々を「鵜」にするビジネスモデルの闇について

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 あのですね、まずは一言。

 これはぜひ読んでください。この本は本当に良書。
 手に取った方々一人一人にとって、それぞれ必ずなんらかの有益な気づきがあるはずです。

 今と違って誰もがテレビをつけっぱなしにしていた世代に属する私たちにとってサラ金というのは「明るく面白いCM王」そのものでした。女性ダンサーたちのキレッキレダンス、目をうるうるさせて迫ってくるチワワちゃん、怪しげな宇宙人たち、そしてなにより最も印象的だったのは、それぞれのサラ金の制服を着て笑う、かわいくて親しみやすげな女の子たち。今の若い子たちには信じられないかもしれませんが、売れたい女性タレントがサラ金のCMに出る=いま話題のあの子みたいな感じでもてはやされていた時代でした。怖いよね。

 その笑顔と華やかさの裏でどんな凄惨なことが実際には起きていたのか、もちろん全く知らなかったわけじゃありません。ドラマやマンガ、小説で全く触れないわけじゃないですもの。週刊誌だって読みますもん。
 でもね、見て見ぬふりしてきたのも確かです。
 「面白ければそれでいい」「楽しければそれでいい」
 「明るくて軽ければそれでいい」
 そういう時代だったんです、恐ろしいことに。
 人の道どこいった。

 言い訳は簡単です。「私は使わないから」
 「あの人たち(利用する人たち)は、まあ、”そういう人たち”だから」
 「それとこれとは別だから」

 そうやって自分の目先の娯楽と見知らぬ人たちの破壊された人生とを完全に切り離し、サラ金企業たちの提供する娯楽を無邪気に楽しんでいた恐ろしい時代でした。
 それでもまともな人たちは「あんなCM垂れ流して……おまえら正気か?」と苦々しく思っていたことでしょう。

 若さの一つの愚かさとして、目先の楽しみこそがなにより優先、倫理観を平気で犠牲にできてしまうところがあって、しかもそれの何が悪いのだと開き直ってしまいがちです。
 その若さがあってこそ新たに切り拓かれていくものもあるとは思うのですが。
 でもやっぱりね、若くたって正気じゃなきゃいけない領域はあります。その一つがこれだと思います。

 お金のこと。
 お金に対する人の道がますます壊れつつあるのをなんとなく感じながら。

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 さて本題。

 「人々を鵜にしてしまえば、そりゃさあ、確かに儲かるけれど、そんなことしてほんとに許されると思うのか」

 人を鵜にする?どういうこと?
 サラ金のビジネスモデルは、私の理解でざっくり言うと、

「本来お金を借りる必要がない人をうまくそそのかして高利で借りさせる」
 ↓
「貸せば貸すほど高利でもうかるので、さらに多額のお金を貸し付ける」
 ↓
「気づいたときには借りた人たちは、自分の稼ぎをそのままサラ金に流すだけの鵜と化している」

 これはすごいビジネスモデルですよ。人にお金貸すだけで勝手にお金が流れ込んでくる。なんという有能な投資手法。
 このビジネスモデルの一番怖いところは「貸し倒れ」というやつ、相手に高飛びされたりすっとぼけられたりして貸したお金が永遠に戻ってこなくなる、なんですが、そこは当然ぬかりなどあろうはずがございません。そのあたりは本読んでね。読んでて泣きたくなるから。こんだけ客観的に書かれててもつらいから。

 しかもサラ金の恐ろしいところは、つまりは彼らが実に有能なセールスマンという証なのですけれど、いわゆる「ブルーオーシャン」に次々と目をつけていくのです。
 今は借りてないけど潜在的にお金を借りたいと思っている、否、思ってくれる層の発見と掘り起こし。
 最初はそれでも「返せる地力のある人たち」にしか手をつけていなかったのが、次第にそうでない人たちもターゲットとするようになり、その結果。

 多くの人たちが鵜になりました。
 金貸し業者のためだけにただひたすら稼ぎ、稼ぎ、稼ぎ……。
 この場合の労働ってなんだろう。

 そりゃ儲かるでしょうねえ、人の働いたあがりを何もしないで手に入れられるんだもん。でもそれってなんだ?おかしくないか?

 と、これをここまで丁寧に書いたのには理由があります。
 あれ? このビジネスモデル、サラ金に限ったことか? と。

 長くなるのでこれ以上は具体的には書きません。
 重要な点はこのビジネスモデルは間違いなしに儲かるものです。
 儲かるからこそ安易に手を出したいと思う人たちがさらに出てきてもおかしくない。というか、出てきてませんか? そこらかしこに。
 それだけです。

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 この本は2006年「改正貸金業法」の成立により、サラ金企業たちが目に見えて衰退し今に至るところで終わりますが、この本の心憎いところは、この「勝利」が決して「めでたしめでたし」とは言えないようだぞ、という点まで指摘して終わっているところです。
 以下の話はサラ金業者の規制ではなく厳密には闇金業者のほうの規制によって生じたことであり、こちらに対しては2003年にヤミ金対策法というものが先行して成立し、強い取り締まりがあったわけですけれど。
 このやり方が通用しないなら、違うやり方に変えるだけ。
 そういう考えのもと生まれたとしか思えない、今も現在進行形で人々を悩ます「オレオレ詐欺」、そちらに移行していった恐れがあるという警鐘をこの本は鳴らしています。
 また「表が貸してくれなくなった」ことにより、さらに悲惨な個人間融資が裏で跋扈していることにも触れています。

 サラ金それ自体は実は当初は決して非人道的なところからスタートしたわけではなかったとこの本は繰り返し述べています。個人間融資そのものは昔からあったことでもあります。
 しかし始まりはなんであれ、彼らが独自に発展させビジネスモデル化させたこの手法、いつの間にか手法だけが独り歩きし、人を鵜にしてしまえばこんなに儲かってしまうのだということだけを一部の人たちに教えてしまい、サラ金という業態が衰退してもなお、お金を奪い取る快楽とノウハウだけが手元に残ってしまった人たち。

 お金を貸すこと借りること、それ自体がだめというのではなく、その裏には様々な力関係や思惑が絡み合っているということ。お金の貸し借りはお金だけに終わらないことがほとんどです。
 ほんのささいな「これくらいなら」によって永遠に終わることのない力関係に絡み取られ、その後の人生をすべて彼らに捧げつくして終わる。だからこそ人はお金を貸すのだと。支配するために貸すのだと。

 サラ金に限らず、悪事というものは仕組みそのものが悪いのだから法で正せばすべてが終わるということではなく、悪事が儲かる仕組みになぜ人は絡み取られてしまうのか、一人一人が自分たちの中に潜む「隙」や「甘え」、なによりも「欲」、そういったものを各自で自制する訓練を若い頃からしていかなければならないのだと思います。

 そしてお金を大きく稼ごうとする側も。
 人を鵜にしてまで稼ぐことは本当に良いことなのか?人の道に外れていないか?そこまでして稼がなければならないお金なのか?
 いやいやこれは善行でもあるのだと、ほらあの人たちもいっときは幸せを感じてただろう、ときれいごとで自分をだましていないか?
 倫理観なく崖を滑り落ちた先の経済など、破滅しか待っていないと思うのですが。

 人を鵜にしても心の痛まない人たちが世界には沢山いることを、私たちは正しく知って自衛しなければなりません。


武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。