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頼まれてもないのに。その38(読書録:『峠』)
2022年第一弾の読書はこれと決めていました。まったく理由はないのですがなんとなく。家にあったんです。
『峠』という作品の初出は毎日新聞での連載。1966年から68年にかけて執筆され、その前後に連載されていた作品が『竜馬がゆく』と『坂の上の雲』。いやあこれはすごいねどっちも読んでないけど(高田純次風)。
幕末の長岡藩士、鬼才河井継之助を主人公に、激動の時代、倒幕でも佐幕でもない第三の道を模索した武士の半生を描いた歴史小説です。
歴史ものですから当然辞書を引かないと分からない言葉も少なからず出てきますが、文体それ自体は驚くほど平易で、というより歴史小説というジャンルの本はどれも総じて読みやすさこの上ないユーザーフレンドリーな文体で書かれているので、小難しい評論とか読んだ後だともう抱きしめたくなるいとおしさ。ほんと見習いたい。人に読んでもらうという原点に立ち戻りたい。
脱線ひどすぎ。話戻して。
老若男女問わずぜひぜひ読んでほしい一作。私はこの年で初めて読みましたけど、若い頃に一度読んだことのある方でも数十年経って読むとまた新たな読み方ができる小説ではないかと思います。
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さて、どういう視点から書くかね。
目次が嫌いなので今年も相変わらずだらだら書きます。
幕末といえば薩長を軸とする討幕派か徳川宗家を軸とする佐幕派かのいずれかに二分されるものと思っていたのですが、この河井継之助という武士はそのどちらでもない道を模索します。長岡藩という地方の小さな藩を、えっとこれくらいはネタバレにならないよね、最新鋭の武器にて増強し永世中立の独立藩、つまり「日本のスイス」にしようと考えたのですね。
後世の我々はその野望が叶わなかったことを知っていますが、それでも長岡周辺を戦地とした北越戦争という新政府軍vs旧幕府軍の戦いでは、結果的には敗れはしたもののいくつかの戦いには勝利し、新政府側に大きな痛手を与えています。
弱小藩が歴史の荒波をいかに乗り切り生き延びを図るか。と同時に武士として生きるとはどういうことか。武士の世は終わるという先見の明を持ち、かつ藩の存続と武士としての精神性とが決して両立しえないことを十分に理解する知性も備えていながら、たった一つの望みにかけて暴走していく継之助の姿を、頑固さをどう捉えるか。
読む年齢層によってこの小説の捉え方がまったく変わってくるだろうというのはこのあたりです。
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この小説を読了し、私が抱いた感想の一つが、まずはこれです。
理想の内在化は己の人格を高めるが、理想の外在化は他者に対する不条理な暴力としかなり得ない。
あれほど優れた才能と高邁な思想を兼ね備えた継之助がなぜ失敗したか。
彼の掲げた理想と目標が、河井継之助という地方の一武士をより高邁に育て上げたという点においては、これ以上にない効果を上げたことは間違いないでしょう。
しかしこれを現実世界に実現化させようとしたとき。しかも他ならぬ継之助自身が相当の無理筋であることを適切に理解していたのに、藩内の反対分子を強引に斥けてまで己の描く素晴らしい未来を長岡藩にもたらそうとした結果。
時勢に従ってさえいれば奪われることのなかった藩民たちの生命と財産が奪われてしまう事態を招きました。
理想を内在化し己の人間性を高めるのはよい、しかし理想を社会全体に対してまで現実化しようとしては、理想を外在化しようとしては、断じていけない。
他者にとってのそれは暴力的な結末しかもたらさないもの。
そんなことを思いましたよね。一つには。
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でもね、自分で書いといてなんなんですけどね。
こんな読み方しかできないなら我々は小説など読む必要はないのです。おとなしく評論読んどけってなる。
私たちが小説を読みたがるのは、読書からなんらかの正解や処世訓を手に入れるためではないような気がしています。そしておそらく小説家として河井継之助に接した司馬遼太郎さんもその点では同じだったのではないかと思われるのです。
あれだけの鬼才をもってして、なぜ河井継之助はこのような生き方を選んだのか。
彼の生き様をなぞること。彼の目で、語りで、当時の日本を捉えたとき、私の目に映るものはなにか、共鳴するものはなにか。
後世の後出しじゃんけん、俯瞰的な立場で彼の決断をどうこういうことはたやすいです。ましてや薩長側からの勝者視点、旧幕府側からの敗者視点からそれぞれ典型的に評価することもたやすいでしょう。
でもそうじゃない。小説ってのはそういうもんじゃありません。
人間ってのは矛盾だらけ、つじつま合わないだらけの生き物です。頭でわかっていても行動はまったくちぐはぐなんてこと、周りの人たちどころか自分自身をかえりみても明らかです。
実際にどういう人物だったかを知る由はありませんが、少なくとも司馬さんが描く河井継之助とは矛盾だらけの人物です。
でもさ、なんとなくわかる気がするんですよね。そうはいってもこれは譲れない、みたいな頑固さってのか、引き下がれなさというか。そんなもんとっとと捨てなきゃあかんとわかっているくせに当の本人が一番引きずっているというすごくわかりやすいアレ。
小説を読むという行為は、本人なり時代なりの属性ゆえどのみち避けられなかった破滅的結末と人間が本質的に抱えている悲劇性に共感するための貴重な体験作業なのかもしれません。
小説を書くという作業も同じなのでしょうね。評価や断罪からはいったん距離を置き、ある種の同一化によって主人公の語りを引き出すこと。
小説を文字ではなく心で「読める」感性、いつまでも大事にしたいです。
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そんなこんなで本年第1冊目となる読書録は以上となります。
武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。