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頼まれてもないのに。その13(私が私であるために好きと嫌いで色を塗る)


雨です。梅雨です。窓の外は例年どおりどんよりと、青や紫色した花が雨空に映える季節です。

洗濯物が乾かないし窓も開けられないので梅雨は嫌いな季節の一つです。窓を全開にできて洗濯物もからりと乾く、晴れた夏の日が大好きです。ここ数年のように暑すぎるのには閉口しますが。

我が家では梅雨明け頃から作り出すことが多い麦茶、夏の暑さが前倒し気味の昨今、今年は5月末から作り始めました。煮出し用のやかんがないのでピッチャーに直接、水出し。本当は常温で頂きたいところ、麦茶は傷みやすいということで冷蔵庫で保存し、その都度レンジで温めて飲むことにしています。この季節体にこもりがちな熱を麦茶がうまい具合に取ってくれているような気がしています。ジャスミン茶も夏になると飲みたくなります。食後の玄米茶は茶筒の在庫限りでいったん店じまいと言ったところ。

この文章はApple Musicのプレイリスト「ファンク ベスト」を聴きながら書いています。音楽のジャンルは未だ不勉強なものの、どうも「ファンク」に分類される曲に好きなものが多いようです。リズムの刻みかたが心地よいのでしょうね。AORに分類される曲たちも嫌いではないものの穏やかすぎてずっと聴いていると飽きます。クラシックも総じて好きで、その中でも特にドビュッシー、チャイコフスキーあたりの時代、曲調が好きみたい。縦の流れとしてはイギリス音楽の系譜もしっくりくるようです。


こうして好きなもの好ましいものを並べ立て、あまり好きでないものしっくりこないものを省いていくことで、ぼんやりとした中から「私の生活」が浮かび上がり、その輪郭が己のなかにも日々丁寧に描きこまれていくのを感じます。私が私であることの、日々の確認。

私が私であることの確認として何かを好きになったり、あるいは何かを嫌だと思うことは、私と他者との境界線を明確にするためにも欠かせません。コミュニケーションを交わす上で、好きと嫌いは欠かせない要素だと。

まあこの境界線、度を越せば「断絶」という名に変わるものでもあるので、配合にはくれぐれも要注意です……


これは私の持論でしかないのですが、ある程度強めの「嫌い」がないと、強い「好き」は持ちづらいような気がしています。嫌いが弱めで漠然としている人は、好きという感情もそんなに強くないんじゃないかな、と。好きが増えていくことにより、好きじゃないもの、受け入れがたいものとの境界線がより鮮明に見えてきてしまうから、嫌わざるをえない、とまではいかなくても環境からなるべく遠ざけたくなる、といいますか。だから「嫌い」は「好き」と表裏一体の副産物、ある程度は致し方なしと思っており、とはいうものの「嫌い」が強すぎる人は、いくら対極の「好き」が魅力的であっても、日々のアクが強すぎてあまり近づきたくない……

「好き」は多種多様にふんだんと、「嫌い」はアクセントとして、効果的に使うのがいいのかな、などと思ったりします。そもそも「嫌い」が多すぎると自分で自分のこと嫌になって疲れちゃいません?

どちらかだけ…… なんでもかんでも褒めるだけの人、見るもの触れるものすべてに難癖をつけなければ気が済まない人、という極端な人も時々います。どちらも私には面白みなくつまらなく思えるのは、ただ一辺倒に好きだけ、嫌いだけではその人としての色味を全く感じないからかもしれません。前者は誰にでも自分をいい人に見せたいか一切の面倒ごとに巻き込まれたくないかのどちらかだと思ってしまいますし、後者はダメなところを手厳しく指摘できる自分は頭が良いでしょというアピールをしているだけに見えてしまうのです。

自分を描くためには好きの絵の具も嫌いの絵の具もどちらも必要で、その絵の具が増えれば増えるほど己の輪郭がはっきりしてきます。絵の具を増やすにはいろんな場所に出向き、いろんな人に出会い、いろんな作品に触れる機会を持つこと。そうやって自分の中にたくさんの絵の具を持っていくことがもうそれだけで日々更新されていく個性なんじゃないかな、と思います。誰かに向けての特別なアピールをしなくてもね。


ただそう考えると、この「嫌い」という感覚自体、自分の輪郭を描くため便宜的にあるものかもしれないので、「嫌い」の対象それ自体に丸ごと責任を負わせ、存在そのものを頭ごなしに否定するという行為は絶対にやってはいけないことだ、ということを忘れないようにしたいです。

私たち自身が、ある日誰かの生活を彩る「嫌い」の絵の具に選ばれることだってあるのですから。






武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。