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レビューとしては使えない私の読書録 その4(『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ著/土屋政雄訳・ハヤカワepi文庫)

<本の基本情報>
わたしを離さないで
カズオ・イシグロ 著 土屋政雄 訳
2008 ハヤカワepi文庫
(Kazuo Ishiguro, 2005, NEVER LET ME GO)

<私の評価>
☆お気に入り度(1-5)    4 
☆おすすめ度(1-5)     4

☆とくに誰に読んでもらいたい?
 この本に出会えた人に。出会うべき時、本に呼ばれた人たちに。   

☆本の印象
 映画にもテレビドラマにもなっている有名なお話ですのでほぼネタバレ状態で読まれる方も多いと思います。私は映画もテレビドラマも見ていないのでそれらとの比較はできないのですけれど、小説単体で申し上げるなら、そうですね、小説を読み慣れていない人たちには先が見えにくくいささか退屈な描写が続くかもしれません。しかしそれこそがこの小説の本質であるような気がします。
 ありふれてて平凡な毎日のさざなみ、だけど喉にささっていつまでもとれない小骨のように違和感のある描写がえんえんと続くこの感じを主人公たちと共有できることが、この物語を小説でじっくり読み進む上での味わいの一つなのではないかな、と思います。
           
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<今回のテーマ>
 なぜこの物語の若者たちは自殺という選択肢を考えもしないのだろう。
 「生きる使命」を生まれながらに知る者たちははかなくも強い。
 そして決して悲しい存在ではない。

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 この物語は日本人にしか書けない物語だと思います。
 人々から奪える(そのくせ奪っているという自覚のひとつも持っちゃいない)強い立場の先進国に住んでいながら、人から奪われる痛みも内部に抱えこんでいる。
 日本人とは、少なくとも今の時代を生きる日本人とはそういう民族のように私には思えます。0と1という対立事項をなんの矛盾もなく知性の中に共存させてしまえる人たち。

 この本を手に取る直前、松本零士『銀河鉄道999』を全巻読む機会に恵まれたことが今回の『わたしを離さないで』の読書体験に大きな影響を与えていることを先に伝えておきます。
 加えて『わたしを離さないで』のメインテーマである内容に興味のある方には新井素子『今はもういないあたしへ・・・』もお勧めします。こちらもSF。10代前半に出会い、未だに強い影響を受けている本の一つです。

 これらの物語を書ける感性の人たちと同じ日本人であることを私はつくづく嬉しいと思います。

 さて。
 この物語の場合、どこまでがネタバレになるんでしょうね。

 ここから数段落にわたって書くことは物語の中にはまったく書かれていません。私の妄想です。
 物語に書かれていないこと、今現実に起きていたり起きつつあることとを虚実まぜこぜにしています。

 近未来。人々は病で命を諦めずに済むようになりました。臓器移植が普及したからです。望みさえすればすぐに健康で若々しい臓器が手に入るようになりました。
 ところでその臓器はどこから提供されるのでしょうか。

 己の命を延ばすということは誰かの命を縮める、もしくは奪っていることかもしれない。その仕組みは直接的ではないし、何重にもマスキングされていて当の本人には見えないようになっているかもしれない。
 それがどうしたというのだ。どのような手段を用いようが生き続けることに罪悪感を持つべきじゃない。それもその通り。
 そうやって人は自分自身と世間様に嘘をつき続けるのだけれど、私にはそれを責めることなどできません。死というのはそれほどまでに恐ろしく悲しく、無念なことだから。目の前で苦しんでいる人や自分自身の苦痛と、話したことも会ったこともない人と、きれいごとではなく現実ごととして、さあどちらを優先しますか。

 死とはそこまでしてでも最大限に避けられるべきであるという認識が普及すればするほど、死を自ら選ぶ人たちもまた先進国では後を絶ちません。命の延長を最大限に優先する人が増える一方で、自ら命を捨てる人たちもまた増えていく。それも同じ先進国の中でです。
 このパラドックスはなんなんでしょうか。

 この物語は表向きにはとても輝かしいけれど偽善と嘘に満ち溢れた近未来の裏側。B面の物語なのでしょう。

 A面の世界の空々しい偽善を暴くにはA面の是非を議論しても堂々巡り。
 B面の世界を描くことだけが唯一の手段なのかもしれません。

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 B面の世界。
 そこでは子どもたちが寄宿舎で共同生活を送っています。
 彼ら彼女たちは年齢に見合った心身の発達を重ね、くっついたり離れたり、心を通わせ合ったり傷つけ合ったりして大人になっていきます。
 生まれながらに自分たちに課せられた使命を、もちろんはっきりとは知らされていないのだけれど、漠然とは教えられてきてはいる。

 そして時が来れば彼らはその使命を果たすために呼ばれ、奪われ、順番に命を終えていきます。

 これだけ聞けば、悲劇以外の何物でもありません。
 人の一生というものがそんなことだけに使われていいものなのかと。
 フィクションの世界ではありながら憤る人たちもいておかしくありません。

 でもね、彼らはね、物語の中で一度も自殺など考えもしないのです。

 作者の無意識なのでしょうか、作為的なことなのでしょうか、そこはわからないのですけれど、私たちから見れば人権ガン無視、生きる意味の全否定みたいな環境におかれているのに彼ら、自殺だけは思いもしないのです。

 運命から逃れようと、必死でもがきはするのですけれども。 

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 つまりこれは特殊でもなんでもない、きわめて普遍的な物語である、ということなのではないかと。

 私たちとの唯一の違いは、自分が生まれてきた使命を知っているかいないか。その一点のみ。
 使命を持つものは、それがいかに現代的価値観のもとでは残酷で悲劇的、納得のいかないものであったとしても、使命を持たないものよりも圧倒的に心が強いし、輝いている。

 古来より私たちは不老不死を夢見てきました。 
 その結果私たちが知りえたこと。不老の実現、これはある程度までならなんとかなるということがわかってきました。
 しかしたとえ一日でも長く不老を叶えられたとしても不死だけは完全に叶えることができません。『銀河鉄道999』の機械人間たち(不老を完全に克服した人たち)が死のアクシデントを完全に免れることができていないのと同じ。
 つまりどれほど今後科学が進歩しようとも不老が不死を保証する日は永遠にきません。
 生まれてきた人はいつか必ず死ぬんです。
 私たちもこの物語の主人公たちも、まったく同じ。
 違うのは彼らは死ぬ理由もどういう死に方になるかもわかっているし、その結果死ぬ時期もだいたいわかってるけど、他方私たちは何一つとしてわかってないという一点のみ。

 読んだ人ならだいたい同じ経験をされたと思うのですが、この小説、実に、もうほんとうに実に淡々と回想が進んでいくのです。ああそうか、だってこれ誰にでも少しは心当たりのある、ありふれた青春の思い出だもの。置かれてるシチュエーションは私たちとはちょっと違うけど、こういういざこざや心のさざなみ、友達との間で必ず経験してきてるもの。
 それはいつだって痛くて苦く、どこか甘くて恥ずかしい。
 限定された可能性しかないからこそ、手に取れるすべてがかけがえのない宝物。

 なにが悲劇なんだろう。
 なにが希望なんだろう。
 世界の真実に誰よりも近づくことも、自分の人生の相対的位置づけも、それらは私が限りある命を最大限に輝かし全うするにおいて本当に必要なものなのか?

 考えすぎないこと、知りすぎないこと、見すぎないこと。
 与えられた運命の手札の中で最後まで誇り高く最大限に生ききること。
 これはもしかしたら悲劇の物語ではなく、人が人として生きるとは本来こういうことではないのかと一人一人に問いなおす物語でもあるのかもしれません。


武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。